再開のあいさつ(趣旨の説明)

ながらくこのページを閉鎖していましたが、このたび再公開(再開)することといたしました。

今後は、趣旨というほどの明確なことは定めず、時の流れにまかせつつ、徒然に、書きたいことを書きたいと思います。
かつてのように、図書の引用を必ず取り入れるというルールにも、縛られないようにします。
読書好きの人にとっては、情報も何も得られぬブログになってしまうかもしれません。

趣旨というほど明確なことは定めず、徒然に、などと書きましたが、読者として想定しているのは、大学で私の授業を受けている(受けていた)人です。

授業では伝えきれないもの、背後にあるものを、ここでおぎなうことができればと思っています。

時間はあまりとれないので、断片的な書き物が多くなると思いますが、ときどき訪問してください。

それでは、以上、簡単ながら、再開のあいさつまでにて。

みなさま、どうかお元気で。

断想

この2年、私は何をしてきたのだろう。
精一杯、仕事をしてきたつもりなのだ。
そして、世界は何も変わっていない。
多くの人が亡くなって、
そのことを、私たちは、忘れている。
いずれ、思い出すための企図さえも疎んじられるだろう。
仕事は加速度的に忙しくなるが、
それを拒絶せず、引き受けることが、
生きている自分の仕事なのだと思ってきた。
いま、私は、私を包み込む死者のただ中で、
思い切り息を吸い込む。
そして、あらためて息を吐き出す。
息のできぬ人にかわって、
私はそうしたいのだ。

社会とは何か

故郷が福島であることもあり、福島第一原子力発電所の危機が気になってならない。
震災・原発事故情報を集めようと、はじめてツィッターにも登録し、各所から情報を手に入れるようにしている。

原発ムラ」と呼ばれる、電力会社、研究者、官僚、政治家の利害共同体の問題性が、いたるところで指摘されている。
また、電力会社のスポンサーシップのために、マスメディアが「原発ムラ」の問題点を批判できなかったことも指摘されている。

電力会社や御用学者や所轄官庁に対して、私自身、苦々しい憤りが心の中にあふれてくるが、そうした思いの表出は控えることにしよう。
悲しいことだが、「原発ムラ」とは全く逆の、反体制的なコミュニティにおいても、「原発ムラ」と同じような構造(決まった文法でしか発言が許されない構造)は存在しうる。
大切なことは、体制側の問題点を暴露・指弾してルサンチマンを晴らすことではなく、「ムラ」の問題とその可能性を冷静に見ておくことだと思う。

人類学者の竹沢尚一郎氏(国立民族学博物館教授)は『社会とは何か』(中公新書、2010年)の中で、コミュニティと公共圏の関係について、水俣病患者の運動の事例から、次のように述べる。

「コミュニティとは、生活の共同に根ざすがゆえに強固なつながりをもつ人間の結合である。反面、それはそのゆえに、外部に対しては閉鎖的な性格を帯びざるをえない。しかし、それが支援の運動体や、その活動を記録しようとする創作者たちがかたちづくる公共圏に結びついたとき、患者たちの小さなコミュニティは内部においてはその性格をそのままに維持しながら、外部の社会へとつながっていくことができたのである。」(196頁)

公共圏への架け橋となったのは、「サークル村」を主宰した谷川雁の、次のような思想である。

「われわれの内部は分裂している。その枝の延長上には日本の前衛と大衆の分裂がある。それは論理と感性、意識と下意識という風に上から下への片道通信で処理される性質の分裂ではない。意識の高さがしばしば意識の軽さにほかならず、低さが重さに比例するような相関関係があるのだ。[略]前衛と原点の結合、ここに回路を建設するものこそ工作者ではないか。中間性に苦しむ現在のサークルその他の成員もまたその中間性におのれの地獄を見るならば、その位置から工作者の有力な一端をになうだろう。」(189頁、谷川雁『原点が存在する』1976年、181-182頁)

原発ムラ」と、谷川の「サークル村」とでは存在する場もその論理も大きく異なる。

原発ムラ」は、民衆を取り込むために、巨額の費用を使ってメディアを動員し、原発の安全性を信じさせる「工作者」である。
これは、上から下への「片道通信」による「工作」であり、「原発ムラ」の人々の「意識の高さ」は、そのまま反対者を冷笑する「意識の低さ」に通じる。
ここには、社会の分裂があり、分裂は神話(安全神話)によって隠蔽される。

竹沢氏によれば、谷川の「サークル村」が目指したものは、これとは対照的なものだった。

「この文章[上に引用した文章]が示すように、『サークル村』がめざした共同性は、近代と前近代のはざまにおかれた日本農村の共同体的性格を反映したそれであると同時に、そのなかに徹底した討議をもち込むことで、新しく創造されるべき共同性であった。
谷川や『サークル村』の試みは、しばしば共同体やコミューンのことばで形容されるが、それは正しくない。メンバー間の自由な討議と絶えざる自己批判・他者批判によってのみ存在するような人間の結合を、共同体とは呼べないのである。・・・それがめざしていたのはむしろ「公共圏」、さまざまな成員が平等の資格で討議に参加する空間としての「公共圏」であったと理解すべきであろう。」(189-190頁)

竹沢は、このような谷川の精神が、「サークル村」に言葉の力をあたえたという。
その代表的な表現者が、『苦海浄土』の石牟礼道子であることは言うまでもない。

「石牟礼は・・・生活実感のなかに埋め込まれていた「私」の意識を、谷川の理論のナイフが切り裂き、社会的存在者の発言へと転じさせたというのである。」(192頁)

「社会的存在者」という言葉がキーワードだ。
それは、社会的分裂を神話によって隠蔽するのではなく、論理によって神話的一体性を解体し、その上で、表現へと昇華する。

原発ムラ」の表現は異なる。
テレビで繰り返される、例えば「ただちに影響はない」という発言は、事実を隠蔽しているように響く。科学的には正確であっても、今後起こりうる可能性を隠蔽しているように感じられるからだ。

もちろん、その反対に、不安をあおるだけの言説というのもあり得るだろう。不安を収めるためには、科学的な評価が必要であるのは言うまでもない。しかし、科学的な評価が、すでに起こった事実に関する評価(残念なことにその評価さえ事実かどうか定かでないようだ。本日夜「放射能1000万倍は誤り」と報道されている—追記)にとどまり、今後起こりうる事態に対する発言が奇妙に封じられている(と感じられる)ことが、不安を引き起こす。

専門家としての発言の「正しさ」が、社会的存在者としての発言の重さに通じていかないのは、この時間の枠組みによるのではないだろうか。
社会が未来を先取りするのに対し、科学は事実の確実性を未来の確実性へと振り替えることによって、それに対応する。その振り替えには「想定」という神話がつきまとうが、しかし、いったんできあがったムラは、この時間の枠組みでしかものを考えられない。なぜなら、それこそがムラを成り立たせる論理だから。
私たちの「ムラ」の問題、その可能性とその克服を考えるための議論の要所はこの辺りにあるような気がする。

人間形成にとって共同体とは何か─その2

大震災に遭われた皆様に、謹んでお見舞いを申し上げます。
そして今、被曝の不安にある故郷の皆様に、重ねてお見舞い申し上げます。
どうか被害が最小限に留まることを心より祈っております。

それにしても、一連の震災報道において明らかになりつつある、この国の二面性を、冷静に振り返ってみたい。
一つは、司令塔のずさんさ。(がんばっているとは思うのだが、しかし事ここにいたっては、やはりそう言わねばならぬと思う。)
そしてもう一つは、略奪行為やパニックの起きない、海外メディアから賞賛される一般国民の態度。(報道されないところで何かが起こっているのかもしれないが、しかし大きくは間違っていないだろう。)

この国の基本にあるのは、前回紹介した岡田敬司京都大学教授)『人間形成にとって共同体とは何か』(ミネルヴァ書房、2009年)の次の言葉にあるような、共同体なのだろう。

「それは一言で言うならば、共同体は根底において互恵、互助の原理で成り立っており、リーダーが必要とされるにしてもそれは支配型ではなく調整型だということである。指導者は超越者であってはならず、共同体そのもののみが超越的なのである。」(99頁)

今さら繰り返す必要のないようなことかもしれないが、互恵・互助つまり「お互い様」と言い合って苦労を担い合える共同体の強み。
であればこそ、リーダーの力の及ぶ範囲も「お互い様」の範囲にとどまってしまい、共同体を超えた社会の共通利益に敏感になりにくいという弱み。

上に紹介した本は、学校共同体、学級共同体を、自律的人間形成の場として機能させるための考察をしているのだが、その問題意識は、日本社会の強みを活用しながらその弱みを克服するための戦略としても、的を射ていると思う。
ところで、そこで著者が必要だと指摘しているのが、「認知葛藤的かかわり」である。

「認知葛藤的かかわりは、学校共同体、学級共同体が世間的原世界を超えていく、あるいは改編していくときに必要なものである。それは原世界とそれに対応した子どもの原人格を揺るがしても、ある意味で危機に瀕することがあっても、学校、学級を、伝えられた原世界から、自分たちが了解した、納得した、協議の末、改変改作した、真の自分たちの共同体にすることを促す。」(100頁)

すこし高度すぎる要求のような気もするが、この震災と原発事故があぶり出した日本社会の問題を克服するには、本書が唱えるような学校共同体の批判的討議空間への改革は不可欠だろう。
と同時に、学校ではなく、むしろ企業や政府においてもまた、そのような言論の受け入れられる余地を広げていくことがどうしても必要ではないだろうか。
福島原発地震災害に対する危険性は専門家によって予測され、政治家によって議会でも取り上げられていた。
しかし、その言論はまじめに検討されることがなかった。今回の出来事が人災と呼ばれる所以である。
危険な現場で働いている人のことを思えば、今さらこんなことを言っている自分は、安全なところで後出しジャンケンでものを言っているだけの恥ずべき存在だと思う。
しかしながら、恥を忍んで、教育されるべきは、学校よりもむしろ別にあるのではないか、ということははっきり言っておきたい、と思う。

人間形成にとって共同体とは何か—その1

前回、「幻想、他者、移行対象を豊かにする仕組みづくり」のための理論の紹介を予告した。

が、取り上げた著作(樫村愛子ネオリベラリズム精神分析』光文社、2007年)をよく読んでみると、そのための具体的な記述は少ない。
ちょっと、勘違いをしていたようだ。
そこで、「幻想、他者、移行対象」を豊かにするための理論的方向を、同じ著作の第三章「なぜ恒常性が必要なのか」から学びつつ、それを現代日本に応用するためのヒントを、岡田敬司『人間形成にとって共同体とは何か』(ミネルヴァ書房、2009年)の中に探ってみよう。

樫村は、「幻想、他者、移行対象」を通じた人間の変容が実現するには、「恒常性」が必要であるとする。「恒常性」とは何か。

「恒常性とは、幼児期の他者の全能のイメージを保存しながらも、その担保のもとで現実認識を可能にさせる機能である。恒常性が奪われている統合失調症者が他者や世界を信じられず、絶えず不安で目の前の現実に拘束されているように、恒常性が可能とする想像性は、人々の言語や創造性を可能にするものである。」(114頁)

ラカン派の著者の議論は、精神分析に通じていないとわかりにくいかもしれない。
しかし、事柄自体は単純である。

現実は移ろいゆく。その移ろいゆく現実を、現実の中にいる私たちは、移ろいゆくものとして認識することができる。
このような認識が可能であるのは、人間が現実の世界だけに生きているのではなく、現実と距離をもつフィクションの世界の中に生きているからだ。
このフィクションは、幼児期の他者イメージの受容から始まる。やがてそれは、「遊び」を通して、他者と交流可能なイメージへ、つまり現実と統合されつつ、しかし現実そのものではないイメージへと成長していく。
このイメージの成長は、期待する他者(はじめは親、それが学校の先生に、やがて歴史の偉人に、などというケースはほとんどないかもしれないが・・・)が移りゆく「転移」の過程でもある。
転移によって豊かに成長する、このイメージ空間の恒常性が、人に様々な言葉を身につけることを可能とする。また、それらの言葉によってこの世界はさらに豊かになっていく。

逆に、もしもこの世界が不安定であったらどうなるか。
人間は変化する現実にばかりとらわれてしまい、安心して世界の中に住まうことはできなくなる。そこでは、人間の精神の成熟や、人と人とのつながりは育ちにくい。

それでは、現代は恒常性にとってどのような時代か。

「近代教育が前提としていた啓蒙路線とその背後にあった近代知の権威が批判され解体されたために、教育制度を支えていた「転移(他者に対する期待)」が今機能していない。」(180頁)
「現在の日本では、転移の装置は枯渇している。教員は十分勉強する暇がなく、ノルウェーでのように修士までいって学問を積み重ねていく余裕はなく、子どもに転移を誘発する知的な刺激や人格的な刺激を与えられない。
また、日本の知は輸入学問であって、社会の中で知に対する根本的な敬意がない。そして自分と家族の物質的幸福といったものと結びついていた学校の大義も失われつつある。」(183頁)

人間の精神や人と人とのつながりが可能になるのは、世界の恒常性によってである。
しかし、その恒常性を支える装置の一つである学校は痩せ衰え、恒常性を支えるための言語的伝統は育つどころか、むしろないがしろにされていく・・・。

しかし、嘆いているだけではすまない。
現状を改善するための方策を、岡田敬司『人間形成にとって共同体とは何か』から探ってみよう。
本書もまた、樫村の著作と同様、ネオリベラリズムによる改革に対する危機意識を執筆の動機としている。
「学校教育の市場化とそれに並行する私事化、そして一見それに逆行するかのような国家統制」(1頁)の強化。教育におけるこのような流れに対して、著者は「共同体という中間物に根拠を持つ教育・学習」を対置する。
それは、例えば次のように叙述される。

「自由選択の能力を獲得するには、恣意的、偶然的にコミュニケーション・メディア=専門家を選択するのではなく、子ども時代に人間にとって不可欠と思われるコミュニケーション・メディア、そしてそれに担われた価値と多重的に、そしてできればもれなく出会っておく必要がある。その出会いを全ての領域の専門家を媒介にして行うのは無理がある。親や教師は非専門的にではあるが、子どもを多様な価値に出会わせる必要があり、そのコミュニケーション・メディアであるべきである。未分化ではあるが多元的なコミュニケーションを行う相手として不可欠なのである。」(92-93頁)

ところが、現今の改革は、心理のカウンセラーや教科の専門家を導入する方向へ進んでいる。社会のシステムに適合的な形に学校が作り替えられ、「親も子ども教師ももはやそれら[各々の専門分化したコミュニケーション・メディア]の多元的システムの動作する環境に過ぎな」(92頁)くなろうとしている。つまり、親や子どもは教育サービスの消費者でしかないのだ。
このような学校のシステム分化=サービス化の動向に抗して、著者は学校を共同体として組み立て直すことを主張する。
著者は、ルネ・ジラールやゲーレンの議論を引照して、共同体の原罪に言及することを忘れない。しかし著者は、それらの議論を超えて、共同体を構築する社会的装置の可能性に迫る。その方向性は次のようなものである。

「西欧型社会が採用した法律と国家暴力装置の存在を前提にした上で、このような精神面での弱点[連帯感を喚起できないこと]が補償されるような社会装置(とりわけ教育装置)が可能かどうか考えることである。いわば西欧型社会の暴力連鎖遮断の即効性と、未開社会の連帯意識の醸成による精神的予防性とを兼ね備えた装置、あるいは少なくとも互いの欠点を補い合えるような装置を考えることである。」(195頁)

樫村が論じた「恒常性」もまた、連帯意識と法的装置の安定によって、はじめて可能であったと言えるだろう。これが揺らぐとき、人間形成を促す装置自体が機能不全を起こしていく。

現今、子どもの成長より、大人の成長のことがもっと大きな問題だと感じる。この20年ばかりの社会や政治の大変動は、恒常性を破壊し、大人の人格性の鍛錬の場をも放逐した。
この危機に立ち向かうはずの政治家もまた総崩れの様相を示しているが、それもこの大波の影響によるとは言えないだろうか・・・。

共同性を維持する現代の社会現象—その2

3月になりました。
悲喜こもごもの季節ですが、新しい年度へのよい準備のときとなりますように。

さて、前回と同様、樫村愛子ネオリベラリズム精神分析 なぜ伝統や文化が求められるのか』(光文社新書、2007年)の第四章「共同性を維持する現代の社会現象」から、今日は、企業的共同性を取り上げる。

著者は、マクドナルドで働いた経験を分析したフランス人社会学者ヴェベールの研究を紹介する。

「従業員の60%は学生であり平均年齢は22歳未満のマクドナルドの仕事は、単純作業が中心できつい仕事である。にもかかわらず、フランスで社会学の博士号をもつ心理学者であるヴェベールは、グランゼコール(フランスのエリート校)の受験時代、この仕事に魅せられてしまった。彼はこの体験を自己分析して修士論文と博士論文を書いた。」(213頁)

ヴェベールはマクドナルドの従業員の期間を、(1)「参加の期間」、(2)「融合の期間」、(3)「イマジネールの期間」に分ける。
「イマジネール」とは、「他者に想像的に同一化すること」とのこと。現実と明確に区別される想像ではなく、現実に先行する想像、ぐらいの意味か。

(1)「参加の期間」は、マクドナルドに帰属することを欲望するようになる時期。仲間に認められ、自分の居場所を確保していく時期だ。
(2)「融合の期間」は、自分の仕事が評価されるよう組織の基準に適合していく時期。成功で自信をつけ、さらに組織にコミットするようになっていく時期だ。
(3)「イマジネールの時期」は、(2)よりも「成功」するわけではないが、「さらに組織的なシステムへの信頼の上で組織への融合感情が持続していく期間」(214頁)である。

これを流れの観点から捉え直してみよう。

(1)マクドナルドで働く人は、まずは組織に溶け込めるかどうか不安な状態にある。しかしグループに参入して、そこに同化していくことによって、徐々に居場所を確保する。特に若者が多いマクドナルドの職場は、「若者が父への従属的な絆から離れるための移行的な絆から離れるための仮の自我理想を提供するものとなる」(215頁)。

(2)居場所を確保した若者は、職場の経験を積んでいくにつれ、自我理想を徐々にマクドナルドの理想へと置き換えていく。この理想は、ラカンの概念で「対象a」とよばれる。
これは「人が欲望の対象とする、移り変わるさまざまの対象」とのこと。
従業員は、お客さん・店長さん・同僚などの視点からみた「理想の従業員」を想像的に構築し、それになろうと欲望する。

(3)しかし、「理想の従業員」像は現実には矛盾するものであり、イマジネールとして持続しても、やがては幻想から醒めていく。あるいは、幻想と現実との矛盾を自力で解決できず、様々な症状を抱え込むことになる。

「ヴェベールの経験は、マクドナルドの労働者すべての経験というわけではない。統一教会にもいろいろな信者がいるように、マクドナルドにも醒めた労働者もたくさんいるだろう。しかし労働者に自主的にコミットさせるための強力なシステムが存在することは確認できる。」(217頁)

著者はさらに、これを「誰もが責任をとらない制度」という社会学者セネットの分析を付け加えて次のように言う。

ニューエイジに教祖がいないように、ここでも、各自は各自の幻想に閉じており、リーダーはファシリテーターのように自己責任を各自に押しつけるだけの存在となる。」(217頁)

こうして著者は、前回紹介した宗教的共同性と同様に、マクドナルド的な企業的共同性も、ある種のカルトであり、幻想で人を踊らせるシステムから成り立っているとする。
そして、電子メディアコミュニケーションの分析を加えて、現代の社会システムを成り立たせるコミュニケーションの特徴が「ノリ」(山本七平的にいえば「空気」と言えるだろうか)であり、「ノリを白けさせる言及」は排除されると指摘する(295頁)。

それでは、どうすればいいのか。

ヴェベールが、システムの中での経験を、認識を通して抜け出したように、「ここで起こっていることを馬鹿馬鹿しいと感じること」(296頁)。
しかし、そのように感じることには、システムから疎外されていくという不安も伴う。
だから、

「・・人間の変容には幻想や他者や移行対象が必要である。・・ノリの場以外の信頼の場を、文化や政治のレベルで調達していくことが必要だろう。」(296頁)

現代の未成熟な社会的文化的状況の背後には、幻想の貧困がある。
幻想、他者、移行対象を豊かにする仕組みづくり。

そのための理論の紹介は次回に。

共同性を維持する現代の社会現象—その1

総務省は25日、2010年10月実施の国勢調査の速報値を公表した。

朝日新聞は1世帯あたりの平均人数がはじめて2.5人を下回った(約2.46人)ことに注目し、「孤族化」の傾向が表れたと報道した。
朝日新聞が「孤族」というのに対して、NHKは「無縁社会」という言葉を用いて、現代社会の問題を抉る。
そしていずれも「絆」の大切さを強調する。
しかし、「絆」はつねに両義的だ。

ラカン社会学樫村愛子氏は『ネオリベラリズム精神分析 なぜ伝統や文化が求められるのか』(光文社新書、2007年)の第四章「共同性を維持する現代の社会現象」のなかで、「絆」を創り出そうとする四つの現象を取り上げて論じている。

今日は宗教的共同性を紹介しよう。

宗教的共同性について著者が注目するのは、ニューエイジ
旧来の、教団や教義を中心とする宗教とは異なり、ニューエイジは「商品を消費する形で信仰されている、教団組織をもたない宗教である」。
著者は事例として、アロマテラピー、ヨガ等の心身治療的な商品や、カラーセラピー、ドリームワーク等の心理療法の手法を取り入れた疑似心理療法などを挙げている。
その特質について著者は次のように言う。

ニューエイジにおいては強力な他者への帰依がなく、自分の中の無意識や自分の中の無限の力が信じられており、そういった無意識を通じて辛うじて他者とつながる。自分の中の他者性が「大いなる他者」とつながっている。そこでの他者とのつながりは観念的で脆弱である。」(199-200頁)

心理療法的な手法によって見いだされた「大いなる他者」(その表現の仕方は様々だ)とのつながりを、種々の商品の購入や講習への参加を通して発見していく。
ひところテレビを賑わした「スピリチュアル」なども、この例の典型であろう。
(著者は、江原啓之細木数子などを「メディア・スピリチュアリズム」と呼んでいる。なお、「スピリチュアル」自体は古代以来、人類の文化に大きな影響を与えてきた重要なものであり、思想的にも学術的にもまじめな研究対象となっている。)

著者は、ニューエイジの特徴を精神分析と比較して分析する。

心理療法が宗教化するということ[ニューエイジのこと]は、心理療法の側から見れば、心理療法がやるような徹底的な主体の再帰化[社会学用語、ひとまず反省ぐらいに置き換えて理解しておこう]をどこかで止めてしまうことを意味する。宗教ではないカウンセリングなら、クライアントはどこかで自分の弱さや現実と向き合わなくてはならない。しかし宗教化した心理療法では、問題や力は「気」のような外側の力に委ねられてしまうので、どこかで都合のいい解釈に逃げることができる。」(201頁)

著者はこのように述べて、宗教と精神分析の方向性の違いを際立たせ、宗教的な心理療法としてのニューエイジの問題点を示唆する。

もちろん、現実を受け止めきれず、宗教的な言葉に親和的な人には、カウンセリングよりはニューエイジが問題解決に寄与することもあるだろう。またカウンセリングが何らかの「都合のいい解釈」を利用することもあるだろう。
心というものは、想うこと・思うことが現実なのだから、心の療法は、どうしても解釈や想像や幻想に関わる。だから、カウンセリングであれニューエイジであれ現実の解釈にすぎず、両者の違いを絶対的なものとみなすことはできないだろう。
しかし、心に関わる者(ということはつまり、人間に関わる者でもある)が注意すべきことを、精神分析ははっきりと見据える。

「コミュニケーションに張り付いている人々が、排除されまいと強迫的に人とつながろうとせずとも、存在できる社会が構成できればと思う。また、原理主義的・宗教的な幻想による信頼ではなく——すなわち、他者を排除する可能性のある信頼ではなく——言語や芸術など文化を通じた信頼——すなわち、外傷を記述し他者を受容しうる信頼——をもつことができればと思う。」(315頁)

原理主義的・宗教的な幻想による信頼」が「排除」の可能性を伴うという認識は、決定的に重要だと思う。
というのは、「絆」や「つながり」を創り出そうとする人間の営みが、この種の幻想と無縁ではありえないと思われるからだ。
多くの「絆」が「排除」を含む。「絆」の両義性と言ったのはそのことだ。

「絆」や「つながり」を創り出そうとする働きを皮肉りたいのではない。
わたしたちは、幻想と幻滅の経験を繰り返し、あまりにも皮肉・冷笑の態度を身につけてしまっている。

しかし、幻滅とは、この「両義性」の自覚を欠いているところに生じるのではないだろうか。