課題協学にふれて

私が務めている大学では、一年生必修の科目として「課題協学科目」というものがある。
学生は、講堂で授業テーマの説明を聴き、くじびきで順番を決めて、希望のクラスを選択する。1テーマあたり150名のクラスを学部混成で編成する。この150名をさらに50名の小クラスに分ける。同一テーマを担当する教員チーム3名(異分野で構成)は、50名からなる小クラスを担当する。学生からみると、4週ごとに違う先生の授業を受けることになり、教員からみると、4週ごとに違う小クラスの学生を相手に授業をすることとなる。
私が担当する小クラス50名の授業では、5名ほどのグループをつくる。グループでの討論や共同作業を通して、「アクティブな学習態度」を養う、というのが課題協学という科目の一番の目的だ。
私たち教員チーム(他の2人の教員の専門は脳科学生命倫理)の教室テーマは、「死と生」である。そして私は、小クラスで「死と生ー宗教・哲学から考える」というタイトルの授業をする。授業は、共同作業のための宿題、ミニ講義、課題文の提示、グループ討論などから構成される。
この授業をとおして学生に学んでほしい・考えてほしいと願っていることは、第一に、科学だけでは答えが得られない問題があるということを知ること、第二に、生を意味づけるさまざまな「物語」にふれることをとおして、自分で「よりよい物語」を編むような姿勢を身に付けること、そして、最後に、願わくば、生きていくための力となる言葉と出会うことだ。

でも、これって、一体、何の授業なのだろう。何のためにこんな授業を受けなければならないのだろう。
答案で測定される知識や技能を身につけるような授業でないから、こういう疑問を持つ人も多いと思う。

臨床心理学者の河合隼雄氏は、『「日本人」という病』(静山社文庫、2009年)の第4章「死を生きる」の中で、「神話の知」について述べている。河合氏は「人間は「自然科学の知」と「神話の知」の両方をもたないといけないのではないか」と述べている。「神話の知」がなくなると、

「たとえば人間の一生についても、「だんだん歳をとって死にます」ということになってしまう。つまり、そこに自分の内的体験というものがなくなって、外から見て、だんだん歳をとって弱くなって死ぬ。そのあとは何もありませんということになってしまうのです。」(247頁)

「自然科学の知」は生命現象の変化は説明してくれる。でも、そこには内的体験が欠けている。せいぜい、この世を楽しくおもしろく生きられればよい、そういうことになりがちだ。河合氏は次のように続ける。

「そうじゃなくて、私が生きている生というものは、いったい何を生きようとしているのか。私が死のうとしている死とは、いったいどんな死を死のうとしているのか。この二つがからみ合ってくる……生と言っても、死と隣り合わせにあるから意味がある。死ななかったら生というものにも価値がありません。そのときに、私の神話はなんだろうということになるのです。」(248頁)

死に関わる「神話の知」をとおして、生の意味を考えること。
これが、課題協学をとおして、皆さんと共に考えたいと思っていることなのです。