21世紀のHumanities(続き その2)

 「21世紀のHumanities」に関連して。
 文科省の高等教育政策に問題がないわけではないけれでも、やはり、日本の人文学の弱さがどこに起因するのかを反省し、進むべき方向性を確認しておくことは、大事なことだと思う。
 この問題を考える手がかりとして、ここでも鶴見俊輔の言葉を引いておこう。

 「陰のない観念、これが1905年以来100年の日本の問題です。
 いまの日本の学問は、アメリカの学問の手のひらの中に入っています。アメリカの学者にとってはとても愉快なことなのです。自分の出した学説をよく読んでくれて、正しく解釈する。つまりね、正しく解釈するということは、非常に得手なんですよ。だからもとの著者は嬉しいですね。アメリカの学界の説そのものを変えていくとか、引っかきまわす力はぜんぜん。敗戦後55年間、少なくとも私が理解できる人文系では一人も出ていない。そのあいだ、アメリカと日本とは莫大な金を使っているんですよ。留学に。そんなものです。
 パレスチナはそんなに金を使っていません。だけど、パレスチナからはサイードが出ています。サイードは英文学者ですが、博士号を取るまではすごく頑張って、「コンラッド」という本を書いたんです。これは涙ふましいものですよ。母国語が英語じゃないんだから。それ以後は、もう学術論文を書くのはやめた。あとはエッセイだけとして、10冊ほど出しています。その中に有名な『オリエンタリズム』が含まれていて、英文学だけではなく、歴史学、人類学とさまざまな領域に対して影響を与えています。こういう学者が、莫大な金を使っている日本から、どうして出ないんですか。観念が平ったいからです。」(「問いを受けついで」1999年、『鶴見俊輔語録』2、2011年、26頁)

 鶴見は「1905年からほとんど100年にわたる、日本のインテリの不毛な歴史」とまで語る。
 一面的に思われるところもないわけではないが、鶴見の発言には、日本の人文・社会科学に携わる者が考えなければならない問題が示されていると思う。
 学問は、それが権威となり、人生の問題の解決に必ずしも役立たなくなってしまうことがある。研究者個人にとっては真摯なる探究作業であるものが、そこだけをやっていれば学問をしているとみなされる、神聖な営みとなる。これにより、学問は生活から疎遠となり、外からはやがて何をしているかが見えにくくなり、世間との交流が細くなり、枯渇していく。外国からの最新の成果による権威付けなどで、学問のメンツは保たれるかもしれないが、そうなると、残るのは、学問のメンツを維持するための衣装の流行り廃りだけとなる。
 問題は、いかにしてこのような状況を脱し、学問の意義を回復できるかである。それについて私は、次のようなところに方向性を見出すべきではないかと考えている。
 それは、学問的な作業の成果(書籍)を買ってもらうだけではなく、学問的な作業そのものを「購入」に値するものとすることである。そのためには、学問的な作業そのものを、人生を生きる(社会人として働く、市民として生活する、個人として生きる)ためのスキルの上達に「役立つ」ものとする必要がある。
 注意してほしいことは、ここで私たちは人生というものをできるだけ幅広く理解する必要があるということだ。人間は、お金儲けだけをしていれば満足できる生きものではない。「役立つ」ということの意味は、この人生の深さと広さをどれだけ深く捉えられるかにかかっている。そして、それを幅広く奥深く捉えるならば、人文学は自然科学に劣らず、役立つものであるはずである。
 
 とはいえ、学問的作業を人生のスキル上達のためのアイテムとして認めてもらえたとしても、なお鶴見の提起した問題を克服できるとはいえない。しかし大切なことは(不正確な引用だが)「絶望もまた虚妄」という魯迅の言葉である。絶望に捕らえられて不平を言い続けるのではなく、自分のできることに取り組むことではないかと思っている。