有色の聖母を見る(21世紀のHumanities 続き)

「なぜ、クリスマスを祝うの?」
「お祭りだから。」
「一体、何のお祭り?」
「キリストが誕生したことの。」
「なぜキリストが生まれたことを祝うの?」
「救い主だから。」
「あなたはキリストが救い主だと信じているの?」
「いや、信じているわけではないけど、クリスマスはキリストがお生まれになったことをお祝いするお祭り、降誕祭だということは知っているということ。」
「信じてもいないのにお祝いするのはおかしくない?」
「おかしいかもしれないけれど、でも、みんなそんなものでしょ…」

 たしかに、そんなものかもしれない。科学的な理性では、キリストやその誕生の意味など、人間の作り話としてしか理解できないだろう。
 「そんなものでしょ」と思いながらも、生きていけるのであれば、それでよし。
 しかし、それでは生きていけなくなる時がある。そして、生きていくことが困難な、絶望の中を歩いていく中で、ふだんだったら無意味な作り話としか思えないようなことが、人生の支えとなることがある。

 絶望の果てに有色の聖母を見る。

 前のタイトルで引用した鶴見俊輔の言葉だ。
 親しい人を殺されたメキシコ人たちが見た幻。
 あるはずのないものが現れる。奇跡、あるいは聖なる狂気、というべきか。
 鶴見俊輔は、別のところで、次のような言葉を残している。

 狂人性がゼロになったら、人格は支えられません。(『対論・異色昭和史』2009年。『鶴見俊輔語録1』38頁。)

 聖母と出会う以前から、人は狂気を有している、と考えると、クリスマスのような出来事をお祝いすることの意味について、少し理解が進むのかもしれない。
 「おかしいかもしれないけれど、でも、みんなそんなものでしょ」というのは、よく考えると、まさに一種の狂気。おかしさを疑わずに受け入れさせるこの穏やかな狂気が、これまでの考えが通用しない事態に直面した際に、世界を全く違ったものとして現出させる。
 キリスト降誕時のユダヤ人の中にあった、キリストがやがてお生まれになる、という信仰も、一つの狂気。そして、イエスの死という事態に直面したイエスの弟子たちが、イエスこそキリストであったという確信に到達したのも、一種の狂気。その確信なしに、ユダヤ人たちも、イエスの弟子たちも、生きることはできなかった。
 同じように、メキシコ人が「絶望の果てに有色の聖母を見」たことも、人間に内包された狂気の、一つの美しい展開ではなかったか。
 クリスマスは、おかしなお祭りだ。でも、そのおかしさがあるがゆえに、私たちは誰かのためにプレゼントを用意するのではないだろうか。このおかしさ、狂気性が、私たちの人格を、人生を支えているのであって、理性は、それをあたたかく見守っていればよいのだ。

 以上、鶴見俊輔の言葉によるレッスン。言うまでもないけれど、これは鶴見の言葉を手がかりとする思考の試みであり、鶴見を祭り上げる行為ではない。