人文社会系の適正な規模とは(続き)

 昨日に引き続き、今度は大学院段階における専攻分野別構成をみてみよう。資料は引き続き、「教育指標の国際比較」(平成25年)による。なお、大学院段階については、独の数字はないので、露の例を引く。

       日本   英国   仏国    露国    韓国
 人文・芸術  9.2  11.4  28.4   14.2   13.4
 法経等   15.7  35.8  26.5   28.3   26.2
 理学     7.4  18.6        15.7
 工学    32.2   12.9  20.0    24.6   23.9
 農学     5.0   0.8        3.2
 医歯薬保険 14.2   7.8  23.7    7.3    10.1
 教育     5.5  10.0   m     6.5    19.0
 家政     0.5   m   m     m     a
 その他   10.4   2.7   1.4    0.2    7.3
(*仏と韓国は、理学、工学、農学を足した数)
(mは計数不明、aは制度が存在しない)

 学部と大学院を照らしあわせてみた時にはっきりするのは、日本の大学では、学部段階の文系学生(人文・芸術+法経等)の比率は高いが(49.4)、大学院になるとぐっと下がる(24.9)ということである。逆に、大学院での学生比率が高くなるのが工学系で、その他の理系分野も比率が高くなる。
 大学院における専門別学生比率の文低・理高の傾向は、どの国にも見られる現象というわけではない。英国では法経等で比率が高まり(26.6→35.8)、フランスではほぼおなじである。興味深いのはロシア連邦の例で、昨日の記事には学部の数値を挙げなかったが、露の文系分野における学部→大学院の比率をみると、人文・芸術で1.1→14.2、法経等で16.1→28.3である。ロシアの大学制度には全く疎いので見当違いの推測かもしれないが、学部名称などが独特なのかもしれない。
 昨日も引用したが、今回問題となっている文科省の通知は、学部と大学院を並べて組織見直しを要請している。しかし、学部と大学院は、それぞれの国の人材養成のシステムにおいてそれぞれ異なる役割を果たしているのであり、それを無視して、一括して取り扱うべきであるかのような指示の出し方には大いに問題がある、とは言えそうだ。つまり、学部と大学院、それぞれについて、それぞれの事情をふまえ、またそれぞれの目指すべき方向性を考慮した上で、指示を出すべきだったと思われる。
 では、学部と大学院それぞれの事情、それぞれの目指すべき方向性とは何か。ここでは、それぞれの国においてどの分野で学位を出しているのかを参考に考えてみたい。
 まず、学部段階の分野別構成である。

       日本   米国   英国   仏国  独国   韓国
 人文・芸術 18.8   22.2  21.2   31.3  13.4  12.7
 法経等   35.2  37.1  29.3   35.7  33.8  29.0
 理学     3.2   7.6  19.0        13.2  
 工学    15.7   8.7   9.1    25.5  16.3  35.3
 農学     3.1   1.6   0.9        1.8  
 医歯薬保険  8.5   7.9  11.8    4.8   5.6   4.9
 教育     6.8   6.1   4.5    m   14.6   7.4
 家政     2.8   1.3   m     m    0.5   a
 その他    5.8   7.5   4.2    2.7   0.9  10.8
(*仏と韓国は、理学、工学、農学を足した数)
(mは計数不明、aは制度が存在しない)

 次は、大学院段階の分野別構成である。

       日本   米国   英国   仏国  独国   韓国
 人文・芸術  8.9   10.9  10.2   26.7  11.1  11.7
 法経等   10.9  35.9  36.8   39.5  24.6  25.3
 理学     8.9   4.3  13.8        23.8  
 工学    38.9   8.7  10.8    25.7  16.2  28.6
 農学     6.1   0.7   0.7        4.1  
 医歯薬保険  13.2  14.8   9.5    6.8   16.8   9.5
 教育     5.5  22.3  15.7    m   2.1  18.8
 家政     0.5   0.3   m     m    0.7   a
 その他    7.2   2.0   2.4     1.3   0.5   5.9

 さて、これをみてどう感じるだろうか。
 日本の特徴は、学部段階では人文社会系の人材をそれなりに輩出しているが、大学院段階になると圧倒的に低いというのが、特徴である。他方、大学院段階で他国に比べて高い比率を占めているのが工学と農学である。(上にあげたのは学位取得者数の比較である。これを金額ベースにすると、もっと大きな差が出てくるであろうことは、理系学生・文系学生に要する教育研究経費の差から、明らかだと思われる。)
 多くの人が指摘していることだが、日本の大学は実学志向が強く、工学や医学などの分野にはそれなりに資源配分をしてきた歴史がある。それは19世紀後半の帝国主義の争いの中で日本の大学(旧帝大)に背負わされたミッションによって規定されていた。
 そしていま、グローバル化の中で進められようとしている政策で、「社会的養成」(かなり産業界寄りの「社会」なのだが)という名のもとで人社系の廃止・転換が求められている。そもそも国際的に見ても資源配分の小さかった分野をさらに絞っていこうとするこの政策がもたらすものは、一体何なのだろうか。
 少なくとも、一つ、確実にいえそうなことは、鶴見俊輔の言う「陰のない観念」(12月27日参照)がますます支配的になっていくだろう、という見通しである。
 
 はじめの問いに戻る。人社系の適正な規模とはどの程度なのだろうか。少なくとも方向性として確認できることは、特に大学院レベルでは、人社系の人材をもう少し増やす方向に向けた改革が必要なのではないか、ということだ。
 以上のような全体状況や考えられる方向性を踏まえるならば、人社系の大学院は、自分たちの存在感の小ささを嘆く前に、新しい構想をもって自己主張をしていくことが求められている、と私は考える。それは、決して世間に通用しない主張ではないはずだ。グローバル化によって、ますます人間や社会、国家の諸関係から生じる問題にどう対応するかが問われる時代なのだから。高等教育政策に求められるのは、このような人社系の構想を実現するための具体策である。

人文社会系の適正な規模とは

 人文社会系の学部の廃止・転換に関する文科省の通知についてどのように考えたらよいのか。この問題を考えるための基本的な事実を確認しておきたい。

 文科省の通知とは以下のとおりである。
「人文社会科学系学部・大学院については、18歳人口の減少や人材需要、教育研究水準の確保、国立大学としての役割等を踏まえた組織見直し計画を策定し、組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換に積極的に取り組むよう努めることとする。」

 この通知に関して思うことは、6月21日に書いたとおりだ。そこでは「縮小」は「あり」ではないかと書いたが、その理由ははっきり述べなかった。
 ここでその理由を述べるならば、拡大路線の見直しが必要ではないか、ということだ。学生数が増えたのに、教員数は増えてない。だったら、教育力の実態に見合った形に転換するというのが合理的ではないか、ということだ。以下では、日本の大学の実態がどうなのか、簡単にみておきたい。
 まずは学生数の観点から。大学院重点化により、日本の大学でも大学院生数が増えた。その経緯を、以前、学内広報誌(Crossover No.36, 2014年9月)に書いたので、それを引用しておこう。

「1988年、大学審議会は「大学院制度の弾力化について」を答申しました。答申は「各大学院が、特色を十分に発揮した多様な教育研究を実施し得る途を開くため、大学院制度を多岐にわたって弾力化する」ことを提言し、具体的には「大学等の研究者以外の高度の専門的能力を有する人材の養成を博士課程の目的とすることができる」としました。さらに1991年の答申「大学院の整備充実について」は、国際的に比較して極めて小規模な大学院を量的に充実させる必要性を唱え、同年の「大学院の量的整備について」は、2000年までに大学院生数を「現在の規模の2倍程度に拡大することが必要であること」を提言しました。
 こうして大学院の拡充が進められました。地球社会統合科学府の前身の比較社会文化学府のように、教養教育を実施してきた組織(教養部)をもとに大学院を新しく創設するケースもあれば、学部定員を大学院定員に振り替えて、これまでの大学院を量的に拡大するというケースもありました。こうした取り組みを「大学院重点化」とよび、2000年までに主要9大学の全部局で「大学院重点化」が完了します。
 その結果、学生数はどのように推移したのでしょうか。学校基本調査によると、1991年の大学院生数は、修士68,739人、博士29,911人、合計98,650人。2000年は修士142,830人、博士62,481人、合計205,311人。このように、大学院拡充政策は、学生数2倍以上の拡大を成し遂げたのです。」

 このように90年代に大学院生数が大きくふえたが、2000年代に入ると、学部生と大学院生を合わせた学生数にあまり変化はなく、ほぼ横ばいである。
 他方、教員数はどうか。文科省の「国立大学法人の教員数調査」(平成24年)によると、国立大学の全体の教員数は増えている(平成19年60991人→平成23年62702人)。しかしそれは、教育組織ではない他の組織で働く人が増えたためであり、学部・大学院を合わせた常勤・非常勤教員は減っている(法人化初年度の平成16年度は73962人→平成24年度は71019人)。国立大学法人化が何のために実施されたのかがよくわかる数字だ。
 おおまかに捉えると、日本の大学(国立大学)では、90年代に学生数を増やし、2000年代に入って教員数を減らしているということだ。このような状況で教育の質を改善するためには、学生数を減らすか、教員数を増やすか、いずれかの施策が考えられる。教員数の増加が難しいとすれば、学生数を減らすという選択肢を考慮せざるをえない。これが、縮小は「あり」と考えた理由である。
 しかし、そこでは、それが本当に正しい政策なのかどうかを検討することが必要だとする留保をつけた。そもそも「正しい政策」とは何かという根本的な問題もあるが、その点はあまり深入りせず、検討するための材料として、いくつか大学に関する事実の確認をしていこう。

 日本の国立大学では、設置基準上必要とされる教員数を上回る教員数が配置されている。上でも引用した資料によれば、「分野別に教員配置の状況をみると、教員数では工学関係や医学関係が多いが、設置基準上の必要教員数 と教員数の対比(表4 対比1)では文学関係が約4.7倍と最も大きく、次いで理学関係の約3.7倍と続 いており、いずれの分野においても必要教員数を上回っている。兼担教員を除く専任教員数との対比(表4 対比2)では、文学関係が約2.1倍、次いで理学関係の約 1.7倍と続いている。また、常勤・非常勤教員数ベース(表4 対比3)でみても、文学関係が約3.7倍と最 も大きく、過大な教員配置をしている分野がみられる」という。
 この指摘に基づけば、課題な教員配置をしている文学関係を縮小するのは、「正しい政策」のように思われる。
 しかし、この数字には注意が必要だ。そもそも日本の国立大学では理系に定員が多くが割かれているからだ。それぞれの学部における設置基準上の必要教員と実際の教員数の比率を問題にするのならば、それと同時に、学部ごとの定員がそもそも理にかなっているのかどうか、それを考えなければならないはずだ。
 ところで、どの学部にどの程度の定員が必要なのかという問いは簡単に答えを出すことのできない問題である。ここでは、検討のための一つの指標として、各国の専攻分野ごとの学生比率をとりあげてみよう。それぞれの国は産業構造も違えば、大学が形成された歴史も異なり、例えばヨーロッパ諸国の数値が「正しい割合」を示しているなどとはいえない。だが、このような比較を通じて、日本の大学の人材養成の特色をつかむことはできるだろう。
 「教育指標の国際比較」(平成25年)によれば、各国における「高等教育在学者の専攻分野別構成」(学部・短大段階)の学生比は以下のとおりである。

       日本  英国   仏     独     韓国
 人文・芸術 17.2  20.4  31.8   19.8   10.2
 法経等   32.2  26.6  27.1   30.8   28.3
 理学     3.0  19.6        17.0
 工学    15.3   9.1  16.5   19.2   38.2
 農学     2.8   1.2        1.9
 医歯薬保険 10.9   13.9  7.8     6.1   6.5
 教育     8.4   4.1   m     3.4   4.6
 家政     3.5   m   m    0.4     a
(*仏と韓国は、理学、工学、農学を足した数)
(mは計数不明、aは制度が存在しない)

 このようにみると、日本の人文社会系の規模は、ヨーロッパと大差ないようにみえる。
 しかし、日本の場合は国公私立を合わせた数であることに注意が必要だ。日本の大学の事情に詳しい天野郁夫氏によれば、日本の国立大学入学者の分野別割合をみると、人文系は6%、社会系は15%、教育系は16%。人社系で21%。教育系を合わせても37% だという(天野郁夫「国立大学と文系学部」『IDE 現代の高等教育』2015年11月)。

 皆さんは、日本の大学における人社系の規模についてどう感じるだろうか。大きすぎると思うだろうか、それとも小さいと思うだろうか。また、どの程度ならば適正な規模だと考えられるだろうか。この問いは、各人の価値観が反映する正解の出ない問いだが、考えるに値する問題だと思う。学問の意義を考えるための手がかりになる問題だと思うからだ。次回も、もう少し事実に関する数字をみていきたい。

 

21世紀のHumanities(続き その2)

 「21世紀のHumanities」に関連して。
 文科省の高等教育政策に問題がないわけではないけれでも、やはり、日本の人文学の弱さがどこに起因するのかを反省し、進むべき方向性を確認しておくことは、大事なことだと思う。
 この問題を考える手がかりとして、ここでも鶴見俊輔の言葉を引いておこう。

 「陰のない観念、これが1905年以来100年の日本の問題です。
 いまの日本の学問は、アメリカの学問の手のひらの中に入っています。アメリカの学者にとってはとても愉快なことなのです。自分の出した学説をよく読んでくれて、正しく解釈する。つまりね、正しく解釈するということは、非常に得手なんですよ。だからもとの著者は嬉しいですね。アメリカの学界の説そのものを変えていくとか、引っかきまわす力はぜんぜん。敗戦後55年間、少なくとも私が理解できる人文系では一人も出ていない。そのあいだ、アメリカと日本とは莫大な金を使っているんですよ。留学に。そんなものです。
 パレスチナはそんなに金を使っていません。だけど、パレスチナからはサイードが出ています。サイードは英文学者ですが、博士号を取るまではすごく頑張って、「コンラッド」という本を書いたんです。これは涙ふましいものですよ。母国語が英語じゃないんだから。それ以後は、もう学術論文を書くのはやめた。あとはエッセイだけとして、10冊ほど出しています。その中に有名な『オリエンタリズム』が含まれていて、英文学だけではなく、歴史学、人類学とさまざまな領域に対して影響を与えています。こういう学者が、莫大な金を使っている日本から、どうして出ないんですか。観念が平ったいからです。」(「問いを受けついで」1999年、『鶴見俊輔語録』2、2011年、26頁)

 鶴見は「1905年からほとんど100年にわたる、日本のインテリの不毛な歴史」とまで語る。
 一面的に思われるところもないわけではないが、鶴見の発言には、日本の人文・社会科学に携わる者が考えなければならない問題が示されていると思う。
 学問は、それが権威となり、人生の問題の解決に必ずしも役立たなくなってしまうことがある。研究者個人にとっては真摯なる探究作業であるものが、そこだけをやっていれば学問をしているとみなされる、神聖な営みとなる。これにより、学問は生活から疎遠となり、外からはやがて何をしているかが見えにくくなり、世間との交流が細くなり、枯渇していく。外国からの最新の成果による権威付けなどで、学問のメンツは保たれるかもしれないが、そうなると、残るのは、学問のメンツを維持するための衣装の流行り廃りだけとなる。
 問題は、いかにしてこのような状況を脱し、学問の意義を回復できるかである。それについて私は、次のようなところに方向性を見出すべきではないかと考えている。
 それは、学問的な作業の成果(書籍)を買ってもらうだけではなく、学問的な作業そのものを「購入」に値するものとすることである。そのためには、学問的な作業そのものを、人生を生きる(社会人として働く、市民として生活する、個人として生きる)ためのスキルの上達に「役立つ」ものとする必要がある。
 注意してほしいことは、ここで私たちは人生というものをできるだけ幅広く理解する必要があるということだ。人間は、お金儲けだけをしていれば満足できる生きものではない。「役立つ」ということの意味は、この人生の深さと広さをどれだけ深く捉えられるかにかかっている。そして、それを幅広く奥深く捉えるならば、人文学は自然科学に劣らず、役立つものであるはずである。
 
 とはいえ、学問的作業を人生のスキル上達のためのアイテムとして認めてもらえたとしても、なお鶴見の提起した問題を克服できるとはいえない。しかし大切なことは(不正確な引用だが)「絶望もまた虚妄」という魯迅の言葉である。絶望に捕らえられて不平を言い続けるのではなく、自分のできることに取り組むことではないかと思っている。

21世紀のHumanities

 昨日、私の所属する大学院が主催する「21世紀のHumanities」というタイトルのシンポジウムに、シンポジストの一人として参加した。時間がたりなくなり、結局、自己紹介の後は、フロアからの質問一件に対する回答しかできず、シンポジストとしては面目ない次第ではあったけれど、基調講演をされた栗山茂久先生(ハーバード大学)からは、重要なことを学ばせていただき、参加できてたいへんよかったと思っている。もう一人のシンポジストの飯嶋秀治先生(九州大学)のお話もたいへん興味深かった。
 面目ないといえば、このブログも、今年6月2日の「再開のあいさつ」で趣旨の説明をしながら、継続することができず、放置したままにしていた。そして、これからもそんな時期が続くのかもしれないのだけれども、昨日、栗山先生のお話から学んだことの一つは、人文学はいろいろな形で世界の中に織り込まれており、その多様性と多用性を人びとにもっとわかりやすい形で提示することが、人文学に携わる者の務めであるということだ。
 今回、21世紀の人文学を考えるためのキーワードとして私自身が考えていたことは、批判と創造。人文学を学ぶことの意味は、書かれていることを鵜呑みにするのではなく、それを批判する態度とそのための方法を身につけること、そしてそのような批判的な精神を基礎として、自然科学などの他の学知や芸術などの表現と連携したバランスの取れた知的創造に関与すること、にあると思う。このような意義をもつ人文学が気をつけなければならないのが、権威主義。自らを研究対象と一体化することで、知らず知らずのうちに自ら権威となってしまう。この権威主義と結びついた批判は、独善というべきものだけれども、自己の内的な視点からみると、良心にのっとった態度なのであり、その意味で、本人にとっては、道徳的倫理的に恥じることのない行為となってしまう。さらに、人文学者はしばしば難しい表現を使うけれども、それが上のような態度と結びつくと、聖なる言語が作りだ出され、周囲の人には理解しがたいが、仲間内には好まれるジャーゴンとなる。現在の人文学をめぐる危機を、何か積極的な契機へと転ずることができるとすれば、それはこの内なる権威主義を打破し、外のものとの新たな連携を構築することによってではないか……。そんなことを、シンポジウムでは話そうかと思っていたのだけれど、しかし私の議論の弱い点は、具体策を欠いているということだった。
 栗山先生のお話を聴いて気づいたことは、何かを伝えるために工夫することは恥じることではなく、一流の人間でも(あるいは一流の人間こそ)そのために努力しているということだ。
 最近はまったく記事を書いてこなかったこのブログも、よく考えてみると、それなりに何かを伝える努力ではあった。それができなくなったのにはいろいろな事情があるけれども、21世紀のHumanitiesに携わる一人として、人文学の言葉を、権威主義にならない形で記していくことは、それなりに意味のある営みであると、あらためて自分を納得させることができたように思う。

 今年なくなった鶴見俊輔さんの著作『かくれ佛教』(2010)より。

メキシコにスペイン人が来たとき、神話に基づいてさんざんごちそうした。その後で自分の親類などが虐殺されてしまう。ところが、道を歩いていたメキシコ人の前に突然有色の聖母が現れる。あれも逆説の世界だよね。有色の聖母を見るというんだから。絶望の果てに有色の聖母を見る。(129頁)

 解説によると、有色の聖母とは「メキシコ人の信仰の対象となっている褐色の肌と黒髪の聖母グァダルーペのこと。伝承によれば、グァダルーペの聖母は1531年の12月9日、メキシコ市の北西テペジャクの丘を歩いていた原住民の前に姿を現し、この地に教会を建設するように告げた。スペイン人司祭は彼の言葉を信じない。そこで聖母は、季節的にあるはずのないバラの花と原住民のマントに写した自分の像を司教に見せる証拠として与えたという」(同上)。

 今日は、クリスマスイブ。
 皆さんに、バラの花が届けられますように。どうか、よいクリスマスを。 

有色の聖母を見る(21世紀のHumanities 続き)

「なぜ、クリスマスを祝うの?」
「お祭りだから。」
「一体、何のお祭り?」
「キリストが誕生したことの。」
「なぜキリストが生まれたことを祝うの?」
「救い主だから。」
「あなたはキリストが救い主だと信じているの?」
「いや、信じているわけではないけど、クリスマスはキリストがお生まれになったことをお祝いするお祭り、降誕祭だということは知っているということ。」
「信じてもいないのにお祝いするのはおかしくない?」
「おかしいかもしれないけれど、でも、みんなそんなものでしょ…」

 たしかに、そんなものかもしれない。科学的な理性では、キリストやその誕生の意味など、人間の作り話としてしか理解できないだろう。
 「そんなものでしょ」と思いながらも、生きていけるのであれば、それでよし。
 しかし、それでは生きていけなくなる時がある。そして、生きていくことが困難な、絶望の中を歩いていく中で、ふだんだったら無意味な作り話としか思えないようなことが、人生の支えとなることがある。

 絶望の果てに有色の聖母を見る。

 前のタイトルで引用した鶴見俊輔の言葉だ。
 親しい人を殺されたメキシコ人たちが見た幻。
 あるはずのないものが現れる。奇跡、あるいは聖なる狂気、というべきか。
 鶴見俊輔は、別のところで、次のような言葉を残している。

 狂人性がゼロになったら、人格は支えられません。(『対論・異色昭和史』2009年。『鶴見俊輔語録1』38頁。)

 聖母と出会う以前から、人は狂気を有している、と考えると、クリスマスのような出来事をお祝いすることの意味について、少し理解が進むのかもしれない。
 「おかしいかもしれないけれど、でも、みんなそんなものでしょ」というのは、よく考えると、まさに一種の狂気。おかしさを疑わずに受け入れさせるこの穏やかな狂気が、これまでの考えが通用しない事態に直面した際に、世界を全く違ったものとして現出させる。
 キリスト降誕時のユダヤ人の中にあった、キリストがやがてお生まれになる、という信仰も、一つの狂気。そして、イエスの死という事態に直面したイエスの弟子たちが、イエスこそキリストであったという確信に到達したのも、一種の狂気。その確信なしに、ユダヤ人たちも、イエスの弟子たちも、生きることはできなかった。
 同じように、メキシコ人が「絶望の果てに有色の聖母を見」たことも、人間に内包された狂気の、一つの美しい展開ではなかったか。
 クリスマスは、おかしなお祭りだ。でも、そのおかしさがあるがゆえに、私たちは誰かのためにプレゼントを用意するのではないだろうか。このおかしさ、狂気性が、私たちの人格を、人生を支えているのであって、理性は、それをあたたかく見守っていればよいのだ。

 以上、鶴見俊輔の言葉によるレッスン。言うまでもないけれど、これは鶴見の言葉を手がかりとする思考の試みであり、鶴見を祭り上げる行為ではない。

国立大学から人文社会系学部がなくなってしまう(?)

大学をめぐる出来事がニュースで扱われるようになってきた。
でも、大学に関する出来事(文科省の方針等)がニュースになって伝えられるころには、すでに方針は既定であるため、メディアを通した公共的な議論が大学政策に反映されるということにはならない。これはこれで問題かもしれないのだが、そのことはひとまず措く。
いま「国立大学から人文社会系学部がなくなってしまう(?)」と話題になっている内容は、平成26年8月の国立大学法人評価委員会総会の資料では、「組織の見直しに関する視点」として、次のように書かれている。

◇組織の見直しに関する視点
・「ミッションの再定義」を踏まえた組織改革 ・教員養成系、人文社会科学系は、組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換 ・法科大学院の抜本的な見直し ・柔軟かつ機動的な組織編成を可能とする組織体制の確立

この視点の具体的な内容については、赤字で次のような提案が記されていた。

○ 「ミッションの再定義」を踏まえた速やかな組織改革が必要ではないか。 特に教員養成系学部・大学院、人文社会科学系学部・大学院については、 18歳人口の減少や人材需要、教育研究水準の確保、国立大学としての役割等を踏まえた組織見直し計画を策定し、組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換に積極的に取り組むべきではないか。

これが、先日6月8日づけで文部科学大臣名で各国立大学法人に通知された文書では次のようになっている。

(1)「ミッションの再定義」を踏まえた組織の見直し
 「ミッションの再定義」で明らかにされた各大学の強み・特色・社会的役割を踏まえた速やかな組織改革に努めることとする。
 特に教員養成系学部・大学院、人文社会科学系学部・大学院については、18歳人口の減少や人材需要、教育研究水準の確保、国立大学としての役割等を踏まえた組織見直し計画を策定し、組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換に積極的に取り組むよう努めることとする。

(ちなみに、組織の見直しについては他に(2)では法科大学院、(3)ではその他の組織が取り扱われている。また組織の見直しだけでなく、教育研究、運営等の業務全般の見直しも通知されている。)
これが、「人社系学部の縮小・廃止」というニュースとなって流れている。
さすがに「廃止」はいかがかと思うが、18歳人口の減少や、一部で指摘されている大学のレベル低下を考えると、「縮小」というのは、ありえる選択肢のようにも思う。
しかし、ありえると頭では理解できても、喜んで賛同できないのは、「社会的要請」という観点から、いわば無用とされるものを大学から除去していくこの政策が、本当に正しい政策なのかどうか、よくわからないからだ(「除去」ではなく「縮小」と「転換」ということかもしれないが、縮小や転換を迫られる側からは「除去」されるように見える)。
改革の背景としては、国際的な大学ランキングを挙げる必要がある(そうできなければ、優秀な人材が日本から出て行ってしまう、あるいは優秀な人間が世界からやってこないと言われている)という理由や、財政難の中で大学に予算を配分してもらうためには、財務省を説得するための社会的な支持が必要だ、などの事情があるのだろう。
問題は、こうした改革の背景となる問題と、その問題を解決するために選ばれている施策の理由、その政策を実行した場合の影響等が、関連しあう全体図として見えてこないということだ。
そして、そのように理由がはっきりしない中で、「社会的要請」という観点から、ある研究の分野や領域が「無用」であるとして葬られていく。
自ずと多くの人が、自らの仕事は「有用」であると、ことあるごとに説明を付け加えるようになるだろう。でも、10年後、30年後に何が「有用」なものなのか、一体誰が判断できるというのだろう。話を現代に限ったとしても、現政権に批判的な政治学者や憲法学者の仕事は「有用」とみなされるかどうか。有用か無用かの判断は、かなり恣意的なものだ。
こうした事態に不気味さを感じるのは、このような恣意的な判断に抗する余地がないようにみえるからだ。でも、と、例えば産業界の人は言うだろう。そんなことは当り前のことだ。いくら歴史や伝統があっても、需要がなくなっていけば、廃業せざるを得ない。それが、私たちの世界のあたりまえのルールだ、と。
市場の世界ではそうかもしれないが、学問や教育を市場モデルで考えることは、端的に誤りだと思う。しかし、いくらそれが誤っていると主張できても、財政難の上に18歳人口が減る中で、大学を縮小することは当然ではないか、どこを縮小するかは、それぞれの大学で考えなさい、と言われると、なかなか言い返す言葉がないのも事実だ。
このような議論の舞台を作り直すことが重要なのだと思う。縮小・転換か、存続かという議論を超えて(実際は、もう存続という選択はありえないわけだが、そうであればなおのこと)、新しい議論の枠組みを作り出すことが重要であるはずだ。そのためには、上に述べたように、改革の背景となる問題と、その問題を解決するために道理にかなっていると思われる施策、それを実行した場合の影響等について、全体図を描いて考え直すことが求められるているのではないだろうか。
「大学の機能」(大学は一体いつから「機能」に還元されるようになってしまったのだろう)や「社会的要請」(大学は時代を超えた価値やいまはいない未来の人からの要請も考える必要があると思うのだ)などの、市場における「神話の言葉」に翻弄されないために。

課題協学にふれて

私が務めている大学では、一年生必修の科目として「課題協学科目」というものがある。
学生は、講堂で授業テーマの説明を聴き、くじびきで順番を決めて、希望のクラスを選択する。1テーマあたり150名のクラスを学部混成で編成する。この150名をさらに50名の小クラスに分ける。同一テーマを担当する教員チーム3名(異分野で構成)は、50名からなる小クラスを担当する。学生からみると、4週ごとに違う先生の授業を受けることになり、教員からみると、4週ごとに違う小クラスの学生を相手に授業をすることとなる。
私が担当する小クラス50名の授業では、5名ほどのグループをつくる。グループでの討論や共同作業を通して、「アクティブな学習態度」を養う、というのが課題協学という科目の一番の目的だ。
私たち教員チーム(他の2人の教員の専門は脳科学生命倫理)の教室テーマは、「死と生」である。そして私は、小クラスで「死と生ー宗教・哲学から考える」というタイトルの授業をする。授業は、共同作業のための宿題、ミニ講義、課題文の提示、グループ討論などから構成される。
この授業をとおして学生に学んでほしい・考えてほしいと願っていることは、第一に、科学だけでは答えが得られない問題があるということを知ること、第二に、生を意味づけるさまざまな「物語」にふれることをとおして、自分で「よりよい物語」を編むような姿勢を身に付けること、そして、最後に、願わくば、生きていくための力となる言葉と出会うことだ。

でも、これって、一体、何の授業なのだろう。何のためにこんな授業を受けなければならないのだろう。
答案で測定される知識や技能を身につけるような授業でないから、こういう疑問を持つ人も多いと思う。

臨床心理学者の河合隼雄氏は、『「日本人」という病』(静山社文庫、2009年)の第4章「死を生きる」の中で、「神話の知」について述べている。河合氏は「人間は「自然科学の知」と「神話の知」の両方をもたないといけないのではないか」と述べている。「神話の知」がなくなると、

「たとえば人間の一生についても、「だんだん歳をとって死にます」ということになってしまう。つまり、そこに自分の内的体験というものがなくなって、外から見て、だんだん歳をとって弱くなって死ぬ。そのあとは何もありませんということになってしまうのです。」(247頁)

「自然科学の知」は生命現象の変化は説明してくれる。でも、そこには内的体験が欠けている。せいぜい、この世を楽しくおもしろく生きられればよい、そういうことになりがちだ。河合氏は次のように続ける。

「そうじゃなくて、私が生きている生というものは、いったい何を生きようとしているのか。私が死のうとしている死とは、いったいどんな死を死のうとしているのか。この二つがからみ合ってくる……生と言っても、死と隣り合わせにあるから意味がある。死ななかったら生というものにも価値がありません。そのときに、私の神話はなんだろうということになるのです。」(248頁)

死に関わる「神話の知」をとおして、生の意味を考えること。
これが、課題協学をとおして、皆さんと共に考えたいと思っていることなのです。