21世紀のHumanities

 昨日、私の所属する大学院が主催する「21世紀のHumanities」というタイトルのシンポジウムに、シンポジストの一人として参加した。時間がたりなくなり、結局、自己紹介の後は、フロアからの質問一件に対する回答しかできず、シンポジストとしては面目ない次第ではあったけれど、基調講演をされた栗山茂久先生(ハーバード大学)からは、重要なことを学ばせていただき、参加できてたいへんよかったと思っている。もう一人のシンポジストの飯嶋秀治先生(九州大学)のお話もたいへん興味深かった。
 面目ないといえば、このブログも、今年6月2日の「再開のあいさつ」で趣旨の説明をしながら、継続することができず、放置したままにしていた。そして、これからもそんな時期が続くのかもしれないのだけれども、昨日、栗山先生のお話から学んだことの一つは、人文学はいろいろな形で世界の中に織り込まれており、その多様性と多用性を人びとにもっとわかりやすい形で提示することが、人文学に携わる者の務めであるということだ。
 今回、21世紀の人文学を考えるためのキーワードとして私自身が考えていたことは、批判と創造。人文学を学ぶことの意味は、書かれていることを鵜呑みにするのではなく、それを批判する態度とそのための方法を身につけること、そしてそのような批判的な精神を基礎として、自然科学などの他の学知や芸術などの表現と連携したバランスの取れた知的創造に関与すること、にあると思う。このような意義をもつ人文学が気をつけなければならないのが、権威主義。自らを研究対象と一体化することで、知らず知らずのうちに自ら権威となってしまう。この権威主義と結びついた批判は、独善というべきものだけれども、自己の内的な視点からみると、良心にのっとった態度なのであり、その意味で、本人にとっては、道徳的倫理的に恥じることのない行為となってしまう。さらに、人文学者はしばしば難しい表現を使うけれども、それが上のような態度と結びつくと、聖なる言語が作りだ出され、周囲の人には理解しがたいが、仲間内には好まれるジャーゴンとなる。現在の人文学をめぐる危機を、何か積極的な契機へと転ずることができるとすれば、それはこの内なる権威主義を打破し、外のものとの新たな連携を構築することによってではないか……。そんなことを、シンポジウムでは話そうかと思っていたのだけれど、しかし私の議論の弱い点は、具体策を欠いているということだった。
 栗山先生のお話を聴いて気づいたことは、何かを伝えるために工夫することは恥じることではなく、一流の人間でも(あるいは一流の人間こそ)そのために努力しているということだ。
 最近はまったく記事を書いてこなかったこのブログも、よく考えてみると、それなりに何かを伝える努力ではあった。それができなくなったのにはいろいろな事情があるけれども、21世紀のHumanitiesに携わる一人として、人文学の言葉を、権威主義にならない形で記していくことは、それなりに意味のある営みであると、あらためて自分を納得させることができたように思う。

 今年なくなった鶴見俊輔さんの著作『かくれ佛教』(2010)より。

メキシコにスペイン人が来たとき、神話に基づいてさんざんごちそうした。その後で自分の親類などが虐殺されてしまう。ところが、道を歩いていたメキシコ人の前に突然有色の聖母が現れる。あれも逆説の世界だよね。有色の聖母を見るというんだから。絶望の果てに有色の聖母を見る。(129頁)

 解説によると、有色の聖母とは「メキシコ人の信仰の対象となっている褐色の肌と黒髪の聖母グァダルーペのこと。伝承によれば、グァダルーペの聖母は1531年の12月9日、メキシコ市の北西テペジャクの丘を歩いていた原住民の前に姿を現し、この地に教会を建設するように告げた。スペイン人司祭は彼の言葉を信じない。そこで聖母は、季節的にあるはずのないバラの花と原住民のマントに写した自分の像を司教に見せる証拠として与えたという」(同上)。

 今日は、クリスマスイブ。
 皆さんに、バラの花が届けられますように。どうか、よいクリスマスを。