他者の欠如

末木文美士『解体する言葉と世界』岩波書店,1998年


本日記でとりあげた「べてるの家」(7月22日,8月12日)や「ラルシュ」(8月22日)の実践のことを思うと,こんなふうに何もしないでいる自分でいいのだろうかと,そんなことを考えないわけにはいかない。けれども,そうした反省はひとまず措いて,今日は,人とかかわる難しさ,とでもいうものを,仏教学者・末木文美士氏の文章から考えておきたい。
「他者への隘路」という文章の中で末木氏は,三人の歌人を取り上げて,それぞれの歌の世界にあらわれる私と他者との関わりを,「「ごっこ」の世界」(俵万智),「敵対する他者」(道浦母都子),「他者の不在」(大西民子)と名づける。その特徴づけは,選歌もたくみで,説得力がある。それぞれ一首ずつ紹介しておこう。

「「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ」(俵万智

「迫りくる楯怯えつつ怯えつつ確かめている私の実在」(道浦母都子

「かたはらにおく幻の椅子一つあくがれて待つ夜もなし今は」(大西民子)

これらの歌の世界を受けて,著者は次のように述べる。

「・・万智ちゃんの「ごっこ」の世界,道浦さんの敵対する他者,そして大西さんの不在の他者・・・どこの哲学の受け売りでもなく,今日ボクらが直面している他者の困難を,彼女たちは自ら生き抜き,そして正面から自分の言葉で表現している。それはとてもスゴいことだとボクは思う。」(73頁)

このように歌人の世界を受けとめつつ,しかし著者は次のように問いかける。

「他者が本当に「私」に対して他者として現われているているということは,それほど自明なことなのだろうか。「ごっこ」の世界では,他者は恋人・友人・家族等という形で現われたが,でも,それは互いにその「ごっこ」の了解を壊さない範囲でのみ有効なものであった。敵対する他者はきわめて緊張に満ちた切実な問題ではあるが,それが固定化されるとき危険なものとなってしまった。そうとすれば,本当に他者と出会うということはどういうことになるのか。」(74頁)

AをBとみなすという活動(「ごっこ」)によって,人間的な世界が成り立つということは,本ブログのカテゴリー[human]で何度かあつかった。世界が,敵対する他者としてあらわれるということも,7月27日の文化人類学者の文章で取り上げた。
他者としての他者とつきあうというのは,実に困難であり,他者からの侵害の危険性を最小限にすることで,人々はその危険に対処しているように思う。
しかし,そうした対処はそもそも,他者としての他者の排除を伴うのかもしれない。他者のための実践にも,そうした他者排除が,実はとりついているのかもしれない。
著者は,このような困難を直視しつつ,『法華経』のなかにある他者論から他者の必然性を学びとろうとする。(以下の引用の中の一乗とは,仏となる一つの道。三乗とは,三つの道ということ。『法華経』は,仏となる一つの道,すなわちボサツの一乗の道を教える。)

「・・[利他行を実践する]ボサツとしてあるということは,他者を自己の存在の不可欠な要因として認める立場である。[『法華経』の]三乗が一乗に帰着すると言うのは,たとえどのように自己を単独存在と考えていても,実はボサツとしてしか存在しえない,ということを意味するのである。これは実践の問題である前に,存在の問題であり,認識の問題である。あらゆる人(より広くは衆生)がボサツとしてある,ということは,あらゆる人は他者なくして存在しえない,ということである。・・」(83頁)

素晴らしい実践をしている人をみては,自分にはあのように他者には関われない,と私たちは考える。しかし,存在の問題として,私たちはすでに他者に関わっている。そうであるのに,何故に,歌人の歌にあるように,かくも他者がずれてゆくのか。
大西民子の歌の世界を「他者の欠如」とよんだ著者は,法華経に説かれる必然なる他者関係の背後に潜む奈落を見つめる。

「「他者の不在」とは,その不可欠の他者と現実に関わることがいかに難しいかを示すものに他ならない。他者は時には不可欠でありながら,私から離れ,私の呼びかけに答えてくれないかもしれない。あるいは,他者は時には私の存在を無理やり侵し,私を傷つけ,私を崩壊させるかもしれない。・・」(87頁)

このように著者は,本書の端々において,他者との関わりからなる世界の割目に注意を促すのだが,はたしてこの割目は,いかに乗り越えられるのだろうか。
ひとまずここで言えることは,せっかちにそう問うだけでなく,さらにいっそう奈落の底を直視しておくことも,重要ではないか,ということだ。
「他者の隘路」の最後で著者は,その奈落が,自己自身の中にもあるのではないかと示唆する。どこかへ行かなければ,他者への実践ができないというわけではない。いま,この欠如を抱えた自己と真摯に向き合うことも,立派な他者への実践なのだ,と思う。