自閉症という世界

村瀬学自閉症─これまでの見解に異議あり!』ちくま新書,2006年
東田直樹『この地球にすんでいる僕の仲間たちへ─12歳の僕が知っている自閉の世界』エスコアール,2005年


Aと非Aとを,対立的なものとしてではなく,連続的なものとして見直してみると,双方に対する認識を改める必要を感じることがある。
村瀬学氏の著作は,自閉症という「病」を「健常者」の世界認識と連続的なものとして見直すことによって,自閉症のみならず,人間一般にとって世界がいかにあるのかを考えさせる。

「・・歯ブラシやクシの置いてある位置は,見た目は「空間の位置」にすぎないが,それが一定の「順番」に置かれているというだけで,すでに「時間の序列」になっている・・。だから,暮らしの中で,部屋の中に何が「順番」に置かれているかによって,その人の朝の時間の過ごし方が決まってくることになる。そういうことがあったから,部屋の配置の順番性が狂うと,その人の朝の時間の過ごし方に狂いが生じてしまうのである。
・・・
つまり,物事というのは,順番になっているものがあって,はじめて,別の日にもその順番をたどって目的を果たしたり,目的物を探し当てたり(出したり)することができるのである。「順番」というのは,その人の「次の日」を準備することであり,その人の「先(明日)」を作ることにもなっている。
ここに「序数」という「数」の発見の持つ深い意味がある。順番に並んだ数を意識するということは,実は「先」のこと,つまり「未来」を予測することができるようになっているということだったのである。そこに実は「序数」という「数」のもつ,偉大な力があった。」(42-43頁)

ここから著者は,カレンダーや地図が人間にとってもつ意味を解きほぐし,自閉症の症状とされてきたものが,人類に普遍的に認められる世界の秩序づけ方の一つのパタンであると解釈していく。
村瀬学氏は,1949年生まれ,同志社女子大学生活科学部教授。『初期心的現象の世界』など著作は多数。著作の端々に鋭い洞察がちりばめられている。

もう一つの著作の著者,東田直樹さんは,1992年生まれ。この本の一年前に『自閉という ぼくの世界』をエスコアールから出している。副題からわかるように,東田直樹さんは自閉症と診断されている。
本書に書かれている「自閉の世界」は,しかし,自閉症という「病」の特殊な世界ではない,と思う。
むしろ,人間が生きる世界そのもの,つまり安定と不安定の臨界にある世界が描かれているように,私には感じられる。(もちろん,たしかにそのような臨界にあって,安定をもたらすために働かせる知覚装置が,自閉症者と健常者では違っているのだけれども。)
ただ,こういう理解は,著者の経験をあまりに自分の思想に引きつけた解釈なのかもしれない。
以下は,「健常者」なる人々の世界の自明性を考え直すために,また自閉症者の心的世界を理解する一助として,紹介したい。

「自分の考える時間は,追いかけてもつかまらなくて,いつまでも僕を追いかけるものなのです。たくさんあるのにいつも限られていて,僕をおいたてるものなのです。このからりとしていてすぎても何の証拠のない時間というものから,逃げる方法は見つけられません。できるのなら僕は,永遠に時間の変わらない星にいきたいのです。・・・・自分になぜ時間が分からないのか。ようは,初めと終わりまでの時間がすべてにおいて違うので,絵で描くような場面にはならずに,自分の頭の中で整理出来ないからです。」(16頁)

「永遠に時間の変わらない星にいきたい」という思いの根源にある,時間が分からないことへの不安。しかし,では一体,健常者なる人は何によって時間感覚を得ているのだろうか。この文章を読んで,そういう問いを問われているような気になった。
もう一つ。

「なぜ,数遊びをするのでしょう。
それは,自分の予測がつきやすいからやるのだと思います。
とにかく慣れないと,僕はすぐにいろんなことが分からない状態になるのです。
数字は絶対です。何があっても自分で変わることはありません。計算出来ない数もないのです。数字で表せないものは人の心の中だけです。すぐに分からなくなる僕の心配する気持ちを,数字は落ち着かせてくれます。」(29-30頁)

自閉症における時間感覚への不安が,数字への興味という戦略を選ばせているのかもしれない。このような自閉症児の生きるための戦略と,暦や地図という人類の戦略が,村瀬氏の言うようにつながっているのかどうか,それはよくわからないのだが。