心というもの

滝川一廣『家庭のなかの子ども 学校のなかの子ども』岩波書店,1994年


やや難解な書物が続いたので,比較的わかりやすいものを取り上げてみたい。

滝川一廣氏は,1947年生まれの精神科医。本書刊行時には,名古屋市児童福祉センター「くすのき学園」園長を勤めている。一般向けの図書としては,『「こころ」はどこで壊れるか』『「こころ」はだれが壊すのか』(いずれも羊泉社),『「こころ」の本質とは何か』がある。いずれにおいても読者は,アカデミックの世界というよりはながく現場に携わってきた人の,経験を踏まえた深い洞察に触れることができる。

本書のなかで著者は,「私たちの心の世界は,個体の脳の内部に自生的に芽生えて発達していくものではなく,すでに存在し,まわりの人々が共有している社会的・文化的な精神世界(認識や感情の世界)を,生まれ落ちた子どもが,まわりの人々との交流を介して取り込んで共有していくことによって育まれる世界」(15頁)であると述べている。
脳を活性化することで,人間の問題が解決出来るかのような考えがはびこりつつある現在,このような言葉にこそ重い意味があると思う。

「・・以前,ある児童精神医学者たちのセミナーで,胎児とか新生児に「心があるかないか」をめぐって激論(?)が交わされるのをきいた覚えがある。けれども,真に重要なのは「あるかないか」ではない。児童精神医学者はいざ知らず,ごくふつうの親たちは,自分の子どもを,そのまったき最初から「心ある者」(精神的存在)と当然みなし,そのような対象として関わっているはずである。そして,なによりも重要なのは,そのように周囲が「心ある者」とみなしつつ関与を続ける,まさにそのことによって,子どもたちは「心ある者」へと心の世界を徐々に形成していくにちがいないことではあるまいか。」(36頁)

学問的な激論は,ときに本当に重要な論点から目をそらさせることがある。もっとも,児童精神医学者の目から見て,重要なことが重要でないと言いたいのではない。それが重要である文脈があり,それが重要でなくなる文脈がある,ということである。著者の設定する文脈は,人間とは何かを考える上で,重要だと思う。
上に続けて著者は,具体的な例を挙げて説明する。

「新生児がすでに微笑むことは知られている。それは睡眠中に生じるもので,「生理的微笑」と呼ばれている。・・この微笑には心的な意味合いはないものとされる。けれども,養育者はその微笑に満足を覚え,赤ん坊が幸せにまどろんでいるとか,なにかよい夢を見ているとか,つい心的な感情移入をしてしまうだろう。つまり,すでに「心ある者」として捉えているのである。やがて,乳児はひとの顔を見ると,微笑するようになる。これは実は誰の顔でもよく,「無差別的微笑」と名づけられている。ひとの顔でなくても,円のなかに二つの黒点が並んでいる図形でさえあればよいと実験的事実は教えている。しかし,養育者は,無差別な反応とは考えず,「自分の顔」を見て喜んでいるとか心的な意味づけを与えずにいられないだろう。科学的客観性の前には,これは「誤った認知」ということになろうか。だが,そこに思わず心的な意味づけを与える養育者は,赤ん坊に微笑み返したり,抱き上げたり,頬ずりしたりといった関わりへとおのずと導かれていく。そして,こうした交流を通してこそ,微笑はその養育者を選んで向けられる,はっきり対人関係的な意味を担った「選択的微笑」へと発展していくのではないだろうか。」(36-37頁)

科学的認識は,しばしば日常の生(習慣や慣習)の無意味さを指摘する。それは,科学的認識の設定する文脈においてはたしかにそうなのだろう。しかし,人間の人生という文脈においては,また違った意味をもってくる。

「(成人の)精神生活や心的体験の原型を発達のごく早期まで遡って求めようとする力動精神医学の方法の根拠は,たどっていけば,養育者が乳幼児に対して早期からすでに自分たちのもつ「(成人の)精神生活や心的体験」を投影しつつ交流している・・事実にいきつくかと思われる。・・・乳幼児に向ける大人(養育者)の投影や感情移入も,主観性に彩られた「かのごとき了解」であるかもしれない。しかし,これは必要不可欠な「了解」なのである。」(38頁)

人間の精神生活が,このような「かのごとき了解」によって発達するということの意味は大きい。この「かのごとき了解」を通して,子どもの心は文化や社会とつながるからである。

「この[かのごとき]了解は,大人(養育者)の側からの主観的な「思い入れ」や「意味づけ」である以上,当然ながら,かのごとき了解としてのずれや誤りを十分はらみうるだろう。けれども・・・まったく恣意的な「思い込み」であることを意味するわけではない。なぜなら,この主観は,一端で大人自身がすでに形成を遂げて共有している(共同性を備えた)「心の世界」のあり方によって,もう一端で子どもの示す行動(表情やしぐさ)のあり方自体や全体のシチュエーションによって,一定の規定と方向性を与えられるからである。そして,その了解に基づく養育者の関与は,それに対する子どもの反応によってたえずフィードバックされ,こうした相互交流によって,子どもの「心の世界」は大人たちの共有するものへ向かって育まれていくと考えられる。」(36-39頁)

心を理解しようとする学問は,必ずしも歴史や文化との相性がよくない(7月23日の記述も参照)。それは,よく考えると,不思議なことなのだが,それはおそらく,科学的方法に関わる事態なのだと思う。
そして今や,冒頭でもふれたように,心はもっぱら脳と関係づけられようとしている。
もちろん,関係はあるだろう。しかし大切なことは,それがいかなる文脈においてなのか,それを踏まえることだと思う。