中心と周縁

山口昌男『文化と両義性』岩波書店,1975年


昨日に引き続き,本書から引用する。人文社会科学では,ひところよく言及された人が,別にその理論が明確に否定されたりすることもなしに,ある時期からあまり言及も注目もされなくなるようなことがある。
本書の著者・山口昌男氏も(以下の引用で論じられるエドワード・シルズという社会学者・政治学者はなおさらのこと)現在ではあまり言及されることはない。
おそらくそれは,以下の引用にもあるように,人文社会科学における現実,あるいは人間が経験する世界というものが,一元的なものではないことによるのだと思われる。
これを人文社会科学のいい加減さと否定するのではなく,人文社会科学における可能性として受け止めていくことが大切だ。
人間の経験する世界は決して一元的ではないからこそ,例えば過去の人間の言葉を,現在の支配的な解釈とは別の可能性において解釈することが可能となるし,また,そのような解釈へと向かっていくことによって,現在の秩序の形骸化を防ぐということもできる。
以下に引用する中心と周縁というテーマは,いまとなってはあまりにも常識的な記述かもしれないが,しかしそれが常識的なものといえるほどに普及したのは,まさに山口昌男氏や中村雄二郎氏の業績によっている。しかし,私たちのなかで常識化したものは,初発の可能性を現実化したものであるのだろうか。
政治思想史という,社会科学と思想史という二つの領域に関わる仕事をしていると,一方では,社会科学の狭さに息苦しさを覚え,他方では,思想史の捉えどころのない曖昧さに意気阻喪することが多い。中心と周縁というテーマは,それらの困難を集約したようなものだが,まだまだこのテーマで考えるべきものは多く残されているように思われる。

「シルズは・・政治及び宗教の世界の中心が,単に機能的な中心ではなく,象徴的な中心としても果たす役割を論ずる。象徴的な,つまり究極の価値の求められる場として論じられるためには,中心は決して地理的な形で現れるとは限らないとする。・・・・シルズは,マックス・ヴェーバーのカリスマ論と,行為及び役割の理論にそって,機能論的に,中心が文化機構の中で果たす役割を論ずる。彼の社会は,政治の世界ばかりでなく,経済,教会,及び文化などの他の局面にも及んでいる。」(225-6頁)

山口は,シルズの論文が示す可能性をまずは評価する。

「こうした文化における中心的象徴の役割を論じた後に,シルズは,中心が政治的世界において必要とされるのは何故であるかという難問を提出する。彼自身は,「人は彼らの身体よりも大きい拡がりを持ち,彼らの平板化した日常生活よりも,現実の究極的構造において,より中心的な象徴との接触の欲求を持っている」からであると説く。」(226頁)

シルズのこの視点を受けて,山口は次のように議論を展開する。

「この視点を生かすならば,政治はよりインテンシィヴに生きるための技術であり,中心は,よりインテンシィヴなものの象徴として,絶えず異なる次元で生きなおす途を示す場であるといえるのかもしれない。しかし,それは同時に,日常生活の中では顕在化しない潜在的な現実,人間心理のより深い部分の触発という行為に人を導くことをも意味する。」(226-227頁)

しかし,シルズは,自身の議論のもつ可能性を,そこまでは展開しない。

「しかし,彼は,政治への欲求は,想像力,理性,知覚力,感受性といった資質を肩を並べる能力のようなものであると説く。こうしてシルズは,一人の人間が,その資質,感受性を通して「中心」へのかかわり合いに巻き込まれていく時に働く政治世界の論理を説明し,同時に,そうした「中心」に対する反抗に様々の立場のあることを説く。この中でも,我々に興味深いのは,「中心的価値体系の象徴を含む中心と,緊密で実際的な関係を持ちながら,その結びつき方が否定的であるような人がある」という指摘である。」(227頁)

シルズの中心・周縁論は,たしかに反抗の立場を説くものではある。しかしそれは,あくまで否定的なものとして捉えられるにすぎず,中心の視点が優位している。シルズの着想のもつ可能性をシルズ自身が制限したことを,山口は批判する。なぜ,周縁が否定的なものとしてしか理解されないのか。

「政治の中心との緊張関係におけるシルズの視点は,確かに「中心」と「周縁」との緊張関係についての鋭い指摘を含んでいる。しかし,惜しいことに,シルズは,後者を・・「周縁」の立場からは捉えていない。シルズのいう「周縁」とは,あくまでも,行政的辺境,或いは,貴族社会の価値,或いは行為体系の中に包括されない大衆を指す。それ故シルズの論文の後半は,近代化の過程においてこれらの行政的周縁部分が如何にして,「中心」の行政・象徴体系に組み込まれていくかという過程に力点が移り,我々の関心からいえば,いささか竜頭蛇尾的な期待はずれに終わっている。」(227-8頁)

ここにシルズと山口の違いがあらわれているが,山口による批判は,シルズからすれば,勝手な思い入れによるものと思われるかもしれない。
しかし,まさにこうした思い入れによって,つまり業績を正確に理解するにとどまらず,それを自分の問題圏へと導き入れ,さらに展開することによって,人文社会科学における発展が可能になる。

「シルズの「中心と周縁」論の中途半端な理由は,そのまま社会科学の限界とも重なっている。その限界とは何であろうか。・・・それは,シルズが現実を,最終的に,一元的なものとしている立場を捨てきっていない点に求められるのである。勿論シルズは,現実の“究極的”構造といった表現を日常生活よりインテンシィヴな次元として捉える立場までは示す。しかしながら,現実の多次元性を説くには至らない。そうした立場では,次元の異なる現実の中では象徴としての中心が,周縁と等価物で入れ替えが可能であったり,または周縁が中心的位置を占めるという転換が起こりうることに思い至らない。」(228頁)

後から来た者は,先の者の「限界」を指摘する。それは後から来たものの特権であろう。その「限界」は,当然ながら,後から来た者の問題設定から言えることである。
歴史はときに,後から来た者の問題設定の「誤り」をみつけ,先の者の「正しさ」を再発見する。
後先が重要なのではない。自らの生きる歴史の中で,自分の問題圏をいかに切り開くことができるか,それが問われているのだと思う。