混沌と秩序

山口昌男『文化と両義性』岩波書店,1975年


この世界を生きるということは,一方では,混沌を秩序化するということであり,他方では,既成の秩序を超え出るということなのだと思う。
秩序化はさまざまな水準でおこなわれ,そこからの超出もさまざまな場面で試みられる。
本書は,秩序化の原的な風景の記述として,なお示唆するところの多いものだと思う。
まずは冒頭の段落から。

「我々は通常,我々を取り巻く世界を,友好的なものと敵対的なものに分割する思考に馴れている。その上で,敵対的な世界に,我々にとって好ましからざる傾向と考える性質を次々に付託する傾向がある。」(1頁)

政治的なものを,友敵関係にみたカール・シュミットを思い返すならば,我々は世界を,まさに政治的なものとして見ている,と言えようか。山口は,こうした思考の原初性を強調する。

「こうした思考は,我々にとって全く身近な世界に対する我々の態度だけに現れるのではなく,人間の意識の展開の歴史的過程の最も早い時期の記録に残されている。人は多分その意識の現れる状態を,混沌を介して自覚してきたと思われる。混沌から身を引き離した瞬間に,彼は混沌を対象化する。混沌の対象化は,秩序の確認への第一歩であったことは疑えない。」(1頁)

友敵関係によって,混沌に秩序を引き入れること。これが,かりに根源的なものだとすると,平和を創るということはが,いかなる意味で可能となるのか,反省を迫られる。
しかし,山口の関心はそこへ向かうのではなく,むしろ混沌の豊穣性に向かう。

シュールレアリストが明らかにしたように,混沌こそは,全ての精神が,そこへ立ち還ることによって,あらゆる事物との結びつきの可能性を再獲得することができる豊穣性を帯びた闇である。それ故,すべての文化は,それが,いかに論理的明晰性を公的な価値として称揚していても,文化構造のあらゆる片隅に,人がこうした暗闇と遭遇することができる仕掛けを秘め匿している。それは夢であるかも知れないし,人の忌み嫌う様々の場所であるかも知れない。しかし,それらを整理してみると,空間的には,人の足の余り赴かない場所,時間的には,歴史が始まる直前といった形をとりやすいことが明らかになる。後者,いうまでもなく神話的思考ともいうべき形をとる。」(1-2頁)

神話は,秩序が混沌との結びつきを保つ場である。神話的暗闇は,秩序においては周縁的であっても,象徴的な空間においては中心である。
この二重性は,今後もこの日記で話題としていきたいテーマである。