政治のことば(2)

成沢光『政治のことば 意味の歴史をめぐって』平凡社1984


前回(4月6日)に続いて,上の書物から。
著者も記すように,古くから政治の「政」はマツリゴトと訓まれてきた。マツリゴトは「祭事」を連想させる。ひいては,現代においても,政治はマツリゴトつまり一種のお祭りだ,等という発言が当たり前のようにくり返されることになる。
著者は,政(マツリゴト)の古代における用例を分析して,そこに,前回(4月5日)紹介したオサム構造に照応した,治者と被治者の相互依存関係を認める。そして,このような相互依存関係がマツリゴトの意味に含まれる背景をさぐる。
そこで著者が指摘するのは,人と神との関係である。

「一つには,王権が成立する以前の,ある種の原始社会内部の成員の相互関係を表わす一連の語が,王権確立後も・・・なお根強く残ったと推定される。・・・
しかし,それだけではない。別の角度から見れば,日本において,古くから人が神に対してなす行為と,それに対応して,神が人に対してなす行為とが,同様に互酬関係として考えられていたこと(あるいは,神と人との間に立つ者が神と人それぞれにコトバとモノを供した関係)と語の用法とは,相応じているものとして解すべきであろう。」(35頁)

神と人との互酬関係がいわば原型となり,それがマツリゴトにおける治者と被治者の関係に当てはめられる。その意味では,たしかに政は祭と連関している。
しかし,政が祭そのものだというのではない。

「祭儀における狭義の神事と,その他の経営・管理雑事のうち,後者こそ,ハカリゴトを要するマツリゴトの原型であり,やがてそれは,機略を要する政事・経営の意へと展開したといえよう。」(42頁)

政治のマツリゴトを祭と解釈したのでは,この機略を要するマツリゴトの原義が見失われる。

ところで,政治に関わる古代の語彙から展開した日本の政治的諸観念は,西洋文明との出会いによって大きな衝撃を受けることになる。その一端が,本書の「近代政治の語彙」で描かれている。ここでは「統治」という言葉を紹介しよう
「統治」とは,「西欧政治概念の受容以後,現代に至る政治意識を探るためのキー・ワード」(223頁)である。支配が近代以前から使用されていたのに対して,統治は「いわば近代語であって,近代天皇制の成立と共に新たな意味内容を盛られたのちに一般化した語」(224頁)である。
「統治」という言葉の成立は明治期の政治史と密接に関連する。よく知られているように,「大日本帝国憲法」の第一条は「大日本帝国万世一系天皇之ヲ統治ス」である。しかし,はじめから「統治」という言葉が用いられていたわけではない。

「初期においてはいわば無意識に「治ム」あるいは「君臨ス」が多く使われていた。・・・ところが,明治十四年の政変後,伊藤博文井上毅らが中心となり,ドイツ各邦の憲法を参酌した草案が作成されるようになってから,「日本帝国ハ万世一系天皇ノ治(シラ)ス所ナリ」(井上による「初稿」明治二十年三月頃,『秘書類纂憲法』所収)を経て,「日本帝国ハ万世一系天皇之ヲ統治ス」(いわゆる夏島草案,同年八月)という表現が現われたのである。井上は「初稿」の説明において,「国ヲ治ストハ以テ全国王土ノ義ヲ明ニセルノミナラズ又君治ノ徳ハ国民ヲ統知スルニ在テ一人一家ニ享奉スルノ私事ニ非サルコト」と述べた。」(230-31頁)

「統治」という言葉には単なる「君臨」にとどまらない天皇支配の意味が込められており,その意味内容が支配の正統性を表現したのである。
「君臨」するにとどまらない「統治」せる天皇の地位規定と共に,内閣総理の地位も曖昧で弱いものとなるのだが,その点については省く。ここでは,「トウチ(トウヂ)は,君臨し且つ支配する天皇の政治行為を表わす特殊な語として創出された」(236頁)ことを確認しておこう。
もっとも,ここでいう「君臨し且つ支配する」の意味も単純ではない。ここでは細部に入ることはできないが,指摘したいのは,天皇による「統治」というマツリゴトの形態に,古代的な神人関係とマツリゴトの機略性の双方が含まれるように思われることである。
「統治」の前に憲法案に採用されていた「治(シラ)ス」という言葉は古事記から選ばれたものである。

「井上は当初,古語の中に適語を求め,『古事記』神代巻でアマテラスがタケミカヅチを通じてオホクニヌシに「汝がうしはける[ウシワク]葦原中国は,我が御子の知らす[シラス]国ぞ」と問うた記事から,単なる領有(ウシハク)と区別された正統支配の意を表わす語と考えて,シラスを選んだ。」(236頁)

これを伊藤博文が「統治」に言い換えたわけだが,この流れをみれば,統治の原義は神話的なものに型を求めたと言えるだろう。
ただ,とりわけて天皇による統治だけが,神話に基づくと言いたいのではない。
およそ,支配秩序の創設にあたっては,このような神話的なものが関わることが多い。それは何故なのか。また,その理由が何であるにせよ,支配に神話が関わるとすれば,神話を忘却することによってではなく,それを思い返すことによってしか,政治を運営することはできないのではないか。そんなことを考える。
もう一つ,統治の機略性について。
日本の近代史を振り返ると,国家の重要な案件が,国民的な議論によってではなく,「統治」する天皇の近くにある(と自己を位置づける)人々の機略的な判断によって決せられたことがいかに多かったかと感じる。そして,そのような国家的な判断の至高性は戦後においても継続したようである。

日本国憲法において天皇は,その文明上においても「統治権」の「総攬」者でなくな・・・ったが,「国家」を「統治権」の主体とする[天皇]機関説のイメージはかえって優勢となり,「統治」とは,支配あるいは政治一般ではなく,「国家」による高度の政治行為であるとする観念が生き続けた。」(243頁)

国家的行為にのみ偏る「統治」は,governmentの有する意味とは異なっている。
かりに西欧風な制度を導入しても,「統治」的・「マツリゴト」的想像力によって制度が運用されるかぎり,それは表面的なかたちを変えるばかりのものにしかならないだろう。その限りにおいて,神話的な支配は継続している,と言えるのではないだろうか。
もっとも,太古以来の神話がそのまま継続しているなどといいたのではない。
政治のことばに伴う神話的な契機は,時代の状況に応じて,その果たす機能は異なるだろう。そこに,政治のことばを,ひいては政治を,変える可能性も開かれるのではないだろうか。