生命を捉えなおす

清水博『生命を捉えなおす 生きている状態とは何か』中公新書,初版1978年,増補版1990年


手元にあるのは,2009年1月25日増補版10版。くり返し刷られているということが,この本の意義を物語っていると思う。
奥付によれば,著者の清水博氏は1932年愛知県生まれ。東京大学の医学部薬学科を卒業し,九州大学理学部教授,東京大学薬学部教授を経て,金沢工業大学教授。専攻は「生命関係学,場の生命論」である。

さて,本書はさまざまな観点から読んでいくことができるが,私がとる観点は,生命にとって思想とは何か,あるいは,思想とは生命現象のどこに位置するのか,である。以下,その観点からざっと見渡した時に興味深く思われた箇所を紹介する。

「一般に生物自らが情報を獲得することを創造と称しています。生物はどのようにしてこれをおこなっているのでしょうか。
情報はつまるところ,「あれか,これか」の選択を可能にするものです。そして生物はまず,あれもこれもと,可能な状態をとってみて,相互に比較をおこなった後によいほうを採り,悪いほうを捨てるという選択法をとっています。すなわち,私たちが試行錯誤と呼ぶ方法によっています。」(227-228頁)

一般に生物が生きる環境は変化する。生物が新しい環境に適応するには,「あれか,これか」の選択における判断能力が問われる。そこで重要なのは,「思考の振幅」「記憶力と二つのものを識別する能力」そして「記憶を適度に失う(過去の影響から離れて自由に行動がとれる)という能力」だという(231頁)。
原生動物における「ゆらぎ運動」に相当する「思考の振幅」は,遺伝子レベルでは「遺伝子のゆらぎ」として働き(著者は木村資生の中立説から説する),文明や学問のレベルでも環境による選択というかたちで求められる。これを著者は,生命と情報の関係として一般化して論述する。
この生命における情報の意義をさらに追究しているのが,増補版で加筆された「生命的調和の世界」の章である。

「本書を書いた後で,生命体の存在にとって重要なのは情報のフィードバックばかりでなく,むしろフィードフォワードの方が重要ではないか,そして生命システムが本質的に創造的な存在であることは,さまざまなフィードフォワード・ループによって大きな生命体の(意味的な)時間と空間の中に,固有の位置をつくりだすということではないかと考えるようになりました。」(272頁)

フィードバックもフィードフォワードも「システムの自律的な制御に関係した情報の流れのあり方を意味している言葉」(276頁)であるが,著者による具体例で説明しよう。
たとえば,一人の受験生が模擬試験を受けて,そこでの間違いを見なおすことで次にそなえる,という制御をおこなう場合,これはフィードバック制御
他方,受験生が志望大学を定め,全国の受験生の成績を参考にしてどの程度の学力が必要かを推定し,それに向けて勉強する,という制御をおこなう場合,これはフィードフォワード制御
フィードバック制御では,「達成された値」という過去の成績が,制御のための意味ある情報として伝達されるが,フィードフォワード制御では,「自分の目標」が,制御のための意味ある情報として伝達される。
ところで,フィードバック制御では,自分の過去の成績と予備校などが出す「合格ライン」との差異を埋めるように,制御がなされる。フィードフォワード制御でも,自分の目標大学に入るために「期待される学力」に向けて,制御がなされる。
受験においてはいずれも大切な姿勢だろう。では,一般的に両者の関係はどのように理解できるか。

「全体の状態がほぼ一定で,将来の状態が見通せる場合には,フィードフォワード制御フィードバック制御も実質的には大きな差はありませんが,混沌とした状態にあるときに,将来の状態を知るためには,一種の予知能力が必要になります。」(277頁)

日本の大学受験のための偏差値ランキングは,混沌の度合が少ないものだろう。これに馴染んでいると,過去の成績にもとづいて自己を制御するフィードバック制御によって人生の選択をしがちとなるかもしれない。
しかし,混沌の度合が深まると,安泰とされた会社も絶対につぶれないとは言いきれなくなる。実際,大学ランキングと比べて,就職人気企業ランキングは大きく様変わりする。
混沌の度合が小さい場合は,フィードバック制御フィードフォワード制御は大きく重なり,精度の高いフィードバック制御に依存することができる。
しかし,混沌の度合が大きい場合には,フィードバック制御ではなく,フィードフォワード制御が求められる。そこでは「一種の予知能力」さえ必要となる。

「[混沌の状態では]・・・将来の状態の一齣を断片的に摑むだけでは不十分で,現在から将来の状態に至る変化の法則を摑まなければ,現在と将来の関係を知ることはできません。また将来を考えて,そこから現在のあるべき姿を知ることもできません。そのためには混沌とした情報の中で大きな流れ(法則性)を摑み,それによって自分の状態を変えていくことが必要とされます。さらにその将来が,自己の積極的な活動によって変わるときには,自己の活動のあり方を,時間的に位置づけていく必要があります。
このように自己の世界に環境から入ってくる混沌とした情報の中にさまざまな法則性を見出して,未来に創造的に対応していくことは,自己の世界の中で新しいセマンティック(意味論的な)情報を生成していくということを意味しています。」(277頁)

以上は,現代社会の一側面を的確に言い当てているのではないだろうか。
混沌の度合を深める現代における人生には,大学受験のランキング表のようなものは存在しない。もちろん,過去の実績がまったく無意味になるというわけではないが,しかし世界ではますます新しい動向が生じて環境が変わっていき,過去の実績では評価できなくなる。このような世界では,自ら目標を定め,それに向けて自己を制御するフィードフォワード型制御が必要となる。
さて,このように生命体と情報という観点から思想の意義をみるならば,思想の意義とは情報を読み取り大きな流れを摑み取る力にあると言えるのではないだろうか。

「人間(そして少なくとも哺乳動物の場合でも同様ではないかと思っているのですが)の意識にはセマンティックな壁があり,その内から外の世界を隔て見ています。このことが人によって認識が異なる原因になっています。・・・
環境の複雑さは実質的に無限ですから,その無限の複雑さをすべて自己の世界の中に取り込むことは,物理的にも不可能です。またその物理的限界にまで行かなくても,情報量があまりに多いと,複雑で膨大な情報の中から意味のある法則性を取り出すことはできません。そしてこの法則性こそ,複雑な環境の中で生きていくために必要です。それは・・・複雑な環境の中で生きていくためには,フィードフォワード制御を必要とし,そのためには環境の状態に関する法則性を知ることを必要とするからです。・・・」(280-281頁)

さまざまな世界の事象から,大きな流れの法則性を読み取るための枠組み(科学や,思想,イデオロギー,等々)は,それ自体が固定化して環境の変化を読み切れなくなると,力を失う。逆に,それを読み取って,新しい行動へと導いていくのならば,力を発揮する。
注意すべきことは,著者が単に「時流にのれ」と言っているのではないことだ。時流が環境を破壊し,持続的に存在することが困難になることもある。著者にとって大切なことは,環境との調和を志向する人間の自由のあり方である。
もっとも,過去の成績(つまり,歴史)からみるならば,人間は,自己の世界観や価値観を固定化させ(著者の言葉で言えば「セマンティックな壁」を絶対化し),自己や集団のアイデンティティを強化し,階層的な秩序を作りあげてきた。だから,著者が言うほど事は簡単ではない,と言いたくもなる。
しかし,こうした悲観的な見方は,著者の分類によれば,それ自体フィードバック的な制御の範疇に入る認識である。必要なのは,フィードバック制御に加えて,フィードフォワード制御を促すような情報回路の創造である。目標を定め,それに向かって進もうというある種の楽天性が求められている。
思想史研究は,このような生命学者の言葉によっても,自らのあり方を見なおす必要があるのではないか。