時間の比較社会学

真木悠介『時間の比較社会学岩波現代文庫,2003年(原著,1981年)


少し間があいてしまったが,前回(4月13日)は,生命論の観点から,人間の「思想」が未来志向的な生き方に関わる側面にふれた。
ただし,誤解のないようにつけ加えておくが,そこでは,人類はみなつねに未来志向的であるとか,そのように生きるべきであるとか,そういうことを言おうとしたのではない。
たしかに,混沌の中で環境に適応して生きていくために,未来志向的に,つまりフィードフォワードに重点をおいて生きなければならないというのは,進化論的な時間の枠では正しいのだろう。そして,現代社会がある種の混沌の様相を深めつつある(ようにみえる)からには,そのなかで「思想」が機能するためには,未来志向的なある種の楽天性を必要とするのだろう(詳しくは4月13日を参照)。
しかし,このような時間の生き方にある種の息苦しさを感じないだろうか。
「10年後を考えて,今の進路を決めましょう」等という言葉に何か違和感を覚えないだろうか。

「けれどもムビティが,現実性のこれらの三つの水準を,時間論の問題として記述していることには,理由があったはずだ。「どう考えても二年以上先のことには関心を抱くことのない」カムバ族の時空を自分の時空として育ったムビティは,キリスト教的な近代ヨーロッパに生きて,十年後の生活設計や二十年後の社会のヴィジョンや,人間の死後の運命や歴史の終末といった奇妙な問題のシャワーにさらされて当惑しつづけたにちがいない。」(76頁)

冒頭に掲げた本書の第1章「原始共同体の時間意識」からの引用である。
引用文中のムビティとは,ケニアの「カムバ族の農村で生まれ育ち,のちにアメリカとイギリスに留学し,ケムブリッジで博士号を得たキリスト教の牧師」(29頁)である。
「現実性の三つの水準」とは,「<現実的なもの>と<非現実的なもの>,およびその中間にある<潜在的なもの>」(76頁)のこと。
私たちにとって,<現実的なもの>の代表は例えば科学や経済,<非現実的なもの>の代表は宗教や神話だろう。そして<潜在的なもの>は,<現実的なもの>となる限りにおいて意味があるとされ,「夢」を「実現」した人々がヒーローとして扱われる。
しかし,

「ここ[アフリカ人の時間意識]からわかることはまず,伝統的なアフリカ人が,<ザマニ>すなわち「神話の時間」を,「確実に起こるとわかっている」ような未来や「自然のリズムにのったことがら」よりも以上に<現実的な>時間として体験しているということだ。ましてや「可能性の少ない未来」や必然ではあるが二年以上もさきの未来は,近代人が神話に対して感じているほどに「非現実」なものにすぎない。」(75頁)

つまり,伝統的なアフリカ人と私たち現代人との間では,<現実的なもの>として感じられるものが異なっているということだ。
前回紹介したフィードフォワード型の「生きている状態」は,このアフリカ人の感覚からすれば,非現実的なものに思われるに違いない。そして,そのような感性は,なお私たちの中にも残っているのではないか,と思われる。
10年後の自分の未来像を考えて今の自分のあり方を考えるというのは,たしかに10年後の観点からは望ましいのだろう。しかし,何故10年後の時間という枠が選ばれなければならないのか。それぞれの時間設定には充分な理由があるのだろうが,しかしそれは,人類に普遍的なものではなく,それぞれの社会や時代において求められる時間の枠があるだけのことではないか,と思う。
大切なことは,それぞれの時代や社会が人間の生を意味づける時間の枠というものを自明視せずに,それの有する意味や働きを考えること。
著者は,近代文明の採用する時間の枠,あるいは時間意識(その一つの典型が,前回紹介した清水博氏のものであると私は思う)を,パスカルの言葉を引用しながら特徴づける。

「この世の生の時間は一瞬にすぎないということ,死の状態は,それがいかなる性質のものであるにせよ,永遠であるということ,これは疑う余地がない……。[パスカル

このことは,ひとりパスカルの恐怖であったばかりではなく,やがてみることになるように,たくさんの明晰な近代精神の,いやおそらくは,近代的理性そのものを究極においてふちどる恐怖であった。」(2頁)

なぜ,生は一瞬で,死は永遠なのか,そして,そのことを理性は恐怖するのか。そこには,いくつかの命題が前提されている。「時間はすべてを消滅させる」という命題はその一つである。
この「時間はすべてを消滅させる」という命題においては,今日行うことは,永遠の中で消すことのできない不可逆的な事実だ,と意味づけることもできれば,数十年後には意味のないものとなってしまう以上,それは無意味だ,と言うこともできる。近代においては,消滅が恐怖や無意味として感じられる後者の時間感覚が支配した。

「このような感覚のとり方を基礎づけている時間感覚は,最終結果のみに意味がある(「終わりよければすべてよし」!)ということ,すなわち<未来が現在の意味である>という感覚(instrumentalism)である。」(6頁)

このような時間感覚にとって,永遠の死は,現在の無意味を決定づけるようなものだ。だから,死は恐怖の源泉となり,それを克服するには,例えば著書も引用するボーヴォワールのように,「人類は死ぬべきものではない」と言うほかなくなる。
本書において著者は,私たちを支配するこのような時間感覚のもつ拘束性──「時間がとられる」「時間がなくなる」「こんなことをする時間はない」等の言葉を私たちはどれほどつぶやいていることか──から解放される道を照らしだそうとする。

「生きられるひとつの虚無を,知によってのりこえることはできない。けれども知は,この虚無を支えている生のかたちがどのようなものであるかを明晰に対自化することによって,生による自己解放の道を照らしだすことまではできる。そこで知は生のなかでの,みずからの果たすべき役割を果たしおえて,もっと広い世界のなかへとわたしたちを解き放つのだ。」(324-325頁)

著者らしい表現だ。そして,その表現の美しさのゆえに,こうした試みはすぐにも達成できそうな気になってしまうが,しかしことはもちろんそう容易なことではない。
だが,たとえば鶴見俊輔が,絵本をせがむ子どもや子どもの本にはまり込む大人の姿の中に現代の「神話的時間」をみるように(鶴見俊輔『神話的時間』熊本子どもの本の研究会,1995年),目的志向の支配する現代においても,神話的時間は時にほのかに再生する。
上に,アフリカの伝統的な時間観念にふれて,「そして,そのような感性は,なお私たちの中にも残っているのではないか」と書いたのは,このような時間が私たちにもなお残されていると思うからだ。