神話的時間

鶴見俊輔『神話的時間』熊本子どもの本の研究会,1995年


一週間前(4月20日)の日記の終わりで,書名だけを挙げた本である。
まえがきによると,本書は「熊本子どもの本の研究会10周年記念事情で行った鶴見俊輔先生の記念講演,谷川俊太郎氏と工藤直子氏の対談など」をまとめたもの。
鶴見の講演だけでなく,鶴見による「ノートブックから」も載せられている。
講演は,会の性格から想像できるように,子育てに関わる,あるいは関わってきたお母さん向けのものである。そのお母さん方に対して鶴見は,子育てとは「近代的な時間」とは異質の「神話的な時間」を生きることだと語る。

「熊本子どもの本の研究会の会報の中に出てくるんですが・・・「息子が七ヶ月の頃から絵本を読んでいます。読むときは決してぐずることなく,どっかり膝を占領するようになりました」という。いや,七ヶ月だったらもう日本語の全構造がわかっているんですよ。「一歳前後から繰り返し読んでいる本は,食事の途中にでも口ずさもうものなら,食べるのを中断してしまって,その本を読めとばかりに突き出す」という。これですね。これが「神話的時間」です。」(15-16頁)

子どもは,親の生きる時間とは異なる時間を生きる。
親が近代的な社会の中で意味あるものとして生きる時間は,この世の業績に関わる時間である。親は,「勉強しなさい」,「こんなことをしていると○○さんみたいになるわよ」などと,ついつい子どもに言ってしまう。子どもに業績をあげさせたいからだ。(そして,そういう子どもを育てたことを自分の業績にしたいからだ。)親がそう思うのは,親の生きている時間が業績中心の時間,つまり近代的な時間だからである。
しかし,えてして幼児は,読んで読んでと繰り返し本を差し出す。同じ話を何度も聞きたがるだけではない。何度も自分で話したがる。近代的な業績時間からすれば無意味な行為に見えるが,しかし,それは子どもが近代的な時間にではなく,「神話的な時間」に生きているからだ,と鶴見は述べる。
ときには親も神話的な時間に入り込むことがある。

「「最初の子が一歳の頃から半分は義務感,半分は子守唄という気持ちで読み始めた絵本でした。が,二番目の子どもが入園後,園から借りてきたエルマー(『エルマーのぼうけん』ですね)のシリーズを読んで気持ちが一変しました。子ども以上にわくわくしながら先へ先へ読み進んでいったのは,私にとってあの本が初めてだったのです」
これは神話的時間に親自身が入り込んじゃったから起こることです。」(16頁)

神話的時間という言葉にはピンとこない,という人も多いと思う。
ここで言う神話とは,古事記日本書紀,あるいはギリシア神話など,昔々から伝承され,ある時期に文字に編纂された神話文学のことではない。
私なりの言葉で言えば,世界と自分との関係について,自分にとって納得のいく物語のことである。

「物と自分との関係がピタッとなるとき,それは神話的な瞬間なんです。」(45頁)

物と自分との関係がピタッとしていない日常と,それがピタッとなる神話的な瞬間。
近代的な時間は,このピタッとしない日常を,理想や道徳の力で,ピタッとなるように変えようとする。
たしかにそれは,世界を貧困や病苦から(一部ではあれ)解放してきた。しかし,死に対したとき,近代的な時間はそれを決して「ピタッと」受け止めることはできない。(なぜなら,死は「業績」にならないから。)
だから,人間が死とともにあるかぎり,少なくともそこにおいては,神話的な時間が再帰する可能性が残る。

「何の中で人間は神話を生きるのかっていうのは,やっぱりその人それぞれなんでしょうね。自分の死を前にする時,神話的時間はもどってくる。自分の親しい人の死に会う時にも。」(50頁)

本書には姉妹編として『神話とのつながり 一七五篇のメッセージ』(熊本子どもの本の研究会)もある。