おとぎの国の倫理学

チェスタトン『正統とは何か─G.K.チェスタトン著作集1』福田恒存安西徹雄訳,春秋社,1973年(原著,1908年)


ここ最近の選書について,神話なんてものをなぜ今さらこんなに取り上げるのかという感想をもたれているかもしれない。
昨日紹介した鶴見俊輔は,講演のなかでチェスタトンの『正統とは何か』の第四章「おとぎの国の倫理学」の章にある話を紹介している。やや丁寧に引用してみよう。(チェスタトンは1874年(日本の年号では明治7年)に生まれ,1936(昭和11)年に亡くなった,英国の作家・批評家。『ブラウン神父』シリーズで有名である。)

「・・・われわれがみな驚異の物語を好むのは,太古以来人間にひそむ驚異の本能を刺激されるからなのだ。その証拠に,ほんの小さな幼児のころには,われわれは別におとぎ話など聞きたがらない。ただのお話で十分なのである。人生そのものが面白くてたまらないのだ。七歳の子供なら,トムが戸を開けたら龍がいた,という話を聞いて面白がる。ところが三歳の幼児なら,トムは戸を開けた,という話だけで面白がる。少年になるとロマンティックな話が好きになるが,幼児はリアリスティックな話が好きなものだ。というのも,幼児にはリアリスティックな話そのものがロマンティックに見えるからである。・・こういうことから考えてみれば,おとぎ話そのものも,実は,まだ母親のおなかの中にいる時小躍りした驚異の情の反響にすぎないことがわかるのである。・・・」(86頁)

世界に対する驚異の感情,しかも歓びを伴った驚異の感情,これが,世界の出来事のリアリスティックな話に対して,幼児が示す関心の根源にあるものだ,とチェスタトンは言う。それは,チェスタトン自身がおとぎ話から学んだ世界観でもあった。
そして,この世界観がもう一つ有する確信が「この不思議と歓びを前にしては,これほど異様な親切を示されている以上,そこにどれほど異様な制限があろうとも,われわれはすべからくその制限に謙虚に従わねばならぬという確信」(96頁)である。
(「異様な制限」としては,例えばシンデレラが12時までに帰宅しなければならないことを思い出せばよい。)
鶴見は,この歓喜を伴う驚異の感情が沸き立つ時を,神話的時間と呼んだ。
では,チェスタトンは何故おとぎ話などを取り上げて,わざわざ「おとぎの国の倫理学」を論じたのか。
それは,チェスタトンにとって,「現代思想」(この本が出版されたのは1908年である)がなべて「おとぎ話の世界観」を破壊するようなものであったからである。

「・・現代世界全体が科学的宿命論を語っているのを私は発見した。あらゆるものが常にそうなるに決まっているまさにそのとおりの姿であり,はじめから一つの欠点もなく,進化の法則に従って展開してきたというのである。木の葉が緑であるのは,それ以外の色では絶対にありえなかったからであるというのだ。ところがおとぎの国の哲学に従えば,木の葉は絶対に深紅でもありえたのであり,だからこそ,木の葉の緑であることが無上の歓びとなるのである。」(96頁)

現代思想」の方が正しいのか,それとも「おとぎ話」の方が正しいのか。チェスタトンは後者に与(くみ)する。それは「現代思想」が「おとぎ話」の有する想像力の豊かさを失っているからである。

「現代の世界は,古来のキリスト教的美徳が発狂して到るところに満ちあふれている。なぜ発狂したのか。美徳と美徳とを結びつける糸が切れ,孤立した美徳が,狂い凧のようにあてどもなく,風のまにまにうろついているからだ。科学者は真を求める。だが彼らの真には慈悲がない。博愛主義者は慈悲だけを求める。だが彼らの慈悲は,遺憾ながら真実を欠くことがあまりに多い。」(45頁)

特定の部分だけを論理的に先鋭化し,全体がばらばらとなった現代のなかで,慈悲や徳から切り離されて営まれているのが,「現代思想」である。
その特徴は,理性に対する異様な自信と,行為の目的に対する行き過ぎた謙虚。第二章と第三章から引用しよう。

「現代のほとんどの思想家が,私には気ちがいと同じようにみえる・・・ハンウェル[精神病院のある地名]から響いて来るあの独特の声音,まごうかたなきあの声が,今日の科学や学問の府から聞こえて来るように思えて仕方がないのだ。・・われわれはすでに,狂人の最大の特徴が何であるかを見た。無限の理性と偏狭な常識との結合である。ところがこの特徴は,気ちがい病院の患者の間だけではなく,先生の間にもかなり広がっているように見えてしようがないのだ。彼らの論理にも一種の普遍性がなくはないが,それはただ,彼がたった一つのせせこましい理論にしがみつき,それをとことんまで突きつめて得ている普遍性にしかすぎない。」(29-30頁)

「・・現代にしかない文字通りの謙虚がある・・昔の謙虚は,人間をせき立てる拍車のごときものであった。人間を一歩も先へ進ませない靴底の釘のごときものではなかった。昔の謙虚は,人間に自分の努力の意味を疑わせたものである。だからこそ人間は,一層の力を尽くして努力を重ねたものである。ところが今日の謙虚は,人間に自分の目的そのものを疑わせるのである。だからこそ人間は,まるきり努力をやめてしまうことになるのである。」(47-48頁)

しかしながら,翻って現代を見渡すならば,チェスタトンの言葉は負け犬の遠吠えにすぎないと見えるかもしれない。
けれども,20世紀初頭から更にはるかに進んだにちがいない科学をもちながらも,現代人はなお窮境から脱することができず,むしろさらに深い深淵に沈もうとしているかのようではないだろうか。
チェスタトンの診断が現在どこまで妥当するのか,それはそれとして検討しなければならないだろう。しかし,彼のいう「おとぎの国の倫理学」は,理性が理性として働くために必要な前提を考えさせるための内実をもっているように思う。
現代の狂気の理由を,「根無し草の理性,虚空の中で酷使される理性」にあるとし,「正しい原理なしに物を考え始めれば,人間は必ず狂気に陥ってしまう」(39頁)と述べた第二章の次章で,チェスタトンは次のように述べる。

「前章の目的は,けっして理性そのものを攻撃することではなかったのである。むしろ理性を弁護することが究極の目的だったのだ。そして現に理性は弁護を必要としている。現代の世界全体が理性に戦いを挑んでいて,そして理性の城の塔は,すでに危うく揺らぎ始めているからである。」(48頁)

ここ一月の日記(4/27, 4/20, 4/8, 4/6, 3/31, 3/23, 3/21, 3/19を参照)で神話を再考しようとしたのも,このためである。
理性が理性として働くための常識とでもよぶべきもの,それを再構築するには,人間の理性(ロゴス)が生み出される場面にたち戻って考え直すことが必要だと思う。おとぎ話や神話は,そのための素材を提供してくれるのである。