ギリシア哲学と現代

藤沢令夫『ギリシア哲学と現代─世界観のありかた』岩波新書,1980年


「哲学」という人間の活動が誕生したのは,古代ギリシア世界においてである。
その哲学的営みを伝える歴史的なテキストは近代になって日本にも伝えられ,多くの人々にギリシア哲学に対する関心を惹き起こしてきた。日本における哲学という学問の営みにふれたあるオランダの哲学研究者は,次のように述べたことがある。

「日本という,むしろ工業・技術の諸達成によって名の高い国において,かくも多数の人々が西洋の思想と文明そのものの根底に深い関心を寄せ,そのために古典語学を習得して,プラトンアリストテレスといった偉大な哲学者たちの著書を原典で読む苦労をも恐れないということは,まことに立派な,そして非常に尊敬すべき事実であります。さらにまた,初期キリスト教と中世の偉大な思想家の著書が日本において読まれ,研究されているという事実も,私たちを感謝と賛嘆の気持でいっぱいにするものであります。感謝,と申しますのは,私たちの最も貴重な知的・精神的遺産を西洋以外の人々と分かちあうのはすばらしいことだからであり,賛嘆,と申しますのは,この最も貴重な文化的遺産に近づくためには,その不可欠の代償として,長くて苦しい知的訓練を経なければならぬことを,私たちはあまりにもよく知っているからです。」(コルネリア J. ド・フォーゲル『ギリシア哲学と宗教』筑摩書房,1966年,II頁)

極東の地にある日本の古代ギリシア哲学(さらにはキリスト教哲学)に対するこのような関心は,単に知的な興味だけによるものではなかっただろう。それは,西洋文明を「優等生」的に受容した日本が,自らを批判的に検討するためにも通らなければならない知的な営みではなかっただろうか。
上に引用したド・フォーゲルの邦訳者の一人であり,日本を代表するプラトン研究者であった藤沢令夫氏(1925年長野県生まれ,京都大学教授,京都国立博物館長を務め,2004年死去)の著作から,そのような反省的知性の一端を見ておきたいと思う。
本書の冒頭の一章で著者は,「大げさな言辞は控えたい」と断りつつ,現代の状況を次のように述べている。

「誇張を取り去ってもなお何びとの目にも明らかな,現代特有の大きな事実を一つ挙げるとすれば,それは,自然科学のかつてない発達,急速にして高度の発達ということでありましょう。そしてその知見が技術と結びつき,さらにこれに支えられて大規模な工業化社会,産業社会が現出されているということであります。」(11-12頁)

今まで何度も繰り返されてきた自然科学・科学技術批判ではあろう。繰り返されるものに人間は飽きてしまうものだ。しかし問題があいかわらず存在しているというのも間違いない。
この本が出版された前年の1979年,アメリカ・スリーマイル島では原子力発電所事故が起き,世界気候会議では温室効果による温暖化の警告が出された。
「温暖化対策」のために原発が見直されている近年の動向は,ここ四半世紀の議論の蓄積は何であったのかと思わせるが,それはさておき,ギリシア哲学研究者としての著者による自然科学・科学技術批判の本領は,単なる「開発批判」「公害批判」を超えた点に発揮されている。

「自然科学とその技術的応用によってわれわれの住む環境的世界が人工化されて行くということは,なにも高層ビルが建ったり,高速道路が開かれたり,列島が改造されたりすることばかりではありません。われわれの時間と空間そのものが,いわば人工化されて,変質してしまうのです。」(16頁)

60年代半ばから70年代半ばにかけて,日本社会は大きく変容したといわれる。変容にはいろんな意味があるのだろうが,その一つとして,時間と空間が大きく変わったことがあげられる。
例えば,新幹線の開通は1964年。それまでは東京大阪間は特急で7時間弱の時間がかかっていたのが,4時間(翌年には3時間10分)に短縮された,という。
また,国内の航空機旅客数は,1965年におよそ515万人であったのが,1970年代半ばまで右肩上がりの上昇を続け,4000万人の大台を超えた。
このような変化は,一方ではたしかに利便性の向上を意味した。しかし他方では,時間や空間がもっていた豊かな内実の喪失をも意味したのである。

「「時間」という言葉をギリシアの言葉で考えてみますと,「クロノス」という言葉がありますけれども,もうひとつ,英語の「アワー」(hour)の語源になっている「ホーラー」という言葉があります。「時間」の意味に慣用されるこの「ホーラー」という言葉の最も基本的な意味は何かというと,それはまさに,天地悠久の秩序としての「季節」ということでした。・・・ヘシオドスの『仕事と日日』などを見ますと,「ホーラー的な」というのは「時宜にかなった」「よろしきにかなった」という意味において,「正しいこと」「正義」という人間の行為の規範を示す観念と,そのまま重なり合うものでした。」(16頁)

「時にかなう」ということが,人間のあるべきあり方と重なり合う,そういう時間のあり方というのは,今ではなかなか想像しにくい。
現代では時間は「節約」するものであり,いろんなところで「促成栽培」が推奨されている。そこでは「効率」よく物事を実現することが良いことであり,「時にかなう」という意味での「時間への信頼」はあまり見られなくなったように思われる。

「・・今日,「時間」という言葉には,どうみてもそのような豊かな内実は存在しない。ただ分刻み,秒刻みに細かくきざまれて,私たちの生活をきびしく規制する時計の時間があるだけであります。・・近世以降の文明の中核にある<効率><能率>の観念は,時計を計るということの上に成立しています。」(17頁)

では,空間の方はどうか。

「・・私たちの「空間」は,ギリシア人たちがそれを「コーラー」とか「トポス」とか呼んでいたときに意味していたような,物やわれわれ自身がそこに確在する<場>としての具体的な内実を失って,むしろ物と物との位置的な関係を規定する抽象的な枠組のようなものに変貌してしまっています。」(18頁)

空間とはそもそもそういうもの(均一の等質的な空間)ではないか,と思う人も多いと思う。しかし,著者によれば,空間は決してそのようなものではない。

「しかし私たちがその中に─あるいはむしろ,それとともに─存在し生きている空間とはけっしてこのような,のっぺらぼうの抽象的等方空間ではないはずです。それはそれ自身が,方位・方向によって異なるさまざまの<意味>と<価値>で充溢した空間でありましょう。のっぺらぼうの等方的空間の観念は,人間にとってけっして自然本来のものではなく,いま言った<場>(コーラー,トポス)が<空虚>(ケノン)の観念と結合してつくり出された,人工的な観念にほかなりません。にもかかわらず私たちは,そのような人工的で抽象的な観念をここでも実体化・実在化し,それを自然に実感するまでに至っているのです。」(18-19頁)

自然科学・科学技術が支配的となった近代社会では,人間の生きる時間・空間は抽象化され,数値化される。そこでは,数値化された時空間をより効率的に支配できるものが,有能なものとされる。そして,そのことを私たちは,当たり前のことと思い,おかしなことだとは思わない。
しかし,この日記で何度も指摘してきたように,このような近代的な抽象的な時空間にのみ専心することは,人間の生をますます貧しくしていくものと思われる。
なぜなら,そこでは,数値化された目標に近づく限りにおいてでなければ,人間の行為に意味や価値が与えられないから。
しかし,人間はしばしば,そうした数値化された目標とは別の世界に生きることを歓びとし,その歓びのなかで自らの生きる世界を受けいれてきたのではないだろうか。
著者は,上の問題系を次のように総括している。

「・・すべてこういった状況は,自然科学の没価値性という言葉に内包されているような・・人間の知,あるいは経験の二つの局面の引き離しということ自体が,引き離された一方の項である生き方・行為の局面の空疎化というかたちでわれわれ自身にはね返ってきている,というふうに総括することができるでしょう。」(23頁)

著者は,このような人間の生の「空疎化」を克服するために統一的な世界観の再建を目指すべきであると述べる。このような著者の見解に賛成する人は,現代ではあまり多くはないかもしれない。しかし,問題の核心についての著者の見解には,否定できないものが含まれているように思われる。
前回(4月28日)紹介したチェスタトンは,「能率」や「有能」を求める世の風潮に対して,次のように述べたことがある。

「「能率」とか「有能」とかは,いうまでもないが,「強者」やら「意志力」やら「超人」とおなじたぐいのろくでもない言葉である。行為の結果だけを云々して,事前になんの哲学もない。したがって選択能力もない。」(チェスタトン『求む,有能でないひと』阿部薫訳,国書刊行会,2004年,10頁)

現代の社会が,あるいは教育が,混迷しているように思われてならないのは,ここに問題があるからではないだろうか。
抽象的な時空間のなかで,人よりも早く目標に到達しなければならないために,何を選択すべきかはもはや問うことが許されず,効率や有能さばかりが求められる。
しかしそのような生は,いわば促成栽培されて,人に食われてしまうだけのような人生ではないだろうか。
そうは言っても,そのように生きるしかないのかもしれない。
しかし,あえて踏みとどまって,著者の言うところの「世界観」としての哲学(チェスタトンならば「選択能力」としての哲学か)を,私たちはもう一度考えてみる必要があるのではないだろうか。少なくとも,「有能」であることを求められる社会に出る前の,大学という場所では。

追伸:皆様,よい連休を過ごされたでしょうか。上の文章のややペシミスティックな調子は,連休の終わりに影響されているのかもしれません。