ギリシア哲学と宗教

コルネリア・J・ド・フォーゲル『ギリシア哲学と宗教』(藤沢令夫,稲垣良典,加藤信朗他訳)筑摩書房,1969年


*生活のリズムを壊し,だいぶご無沙汰してしまいました。なかなかペースのつかめない日々を送っていますが,なんとか継続していこうと思っています。

さて今回は,前回(5月6日)まえがきの一部を紹介したド・フォーゲルの著作から。
古代ギリシアで誕生した哲学は,ミュトス(神話)からロゴス(理性)へといたる知的革新を経て生まれた,と説明されることが多い。だから,哲学は神話や宗教としばしば対比されて説明される。しかし,そうした説明だけを聞いていると,哲学と神話や宗教との間にみられる関係,ある種の重なりが理解しにくくなる。
たとえばソクラテス。「ソクラテスより賢いものは他にいない」というデルポイデルフォイ)の神託を,なぜ彼はあれほどまじめに受け取ったのだろうか。
クセノポンの『アナバシス』におけるソクラテスに関する記述は,著者によれば,

ソクラテスが宗教の事柄に関して「伝統主義者」であり,しかしまた同時に,伝統的な諸形式に極めて個性的な深い意味を与えていた人であることを示してくれる」(16頁)

という。

ギリシア人の間においては,人間に結果の予測ができないような大事にとりかかるばあい,例えば一つの植民都市を建設するようなばあい,デルポイの神の神託にはかることは伝統となっていた。」(16頁)

著者は,このようなソクラテスの姿を振り返ることによって,ソクラテスの知的営みを次のように特徴付ける。

「たしかにソクラテスは,理性に対して絶大な信頼をおいていたようにみえる。─彼は人々に対し,道徳的諸概念について正確に考えることを教えることによって,彼等の徳の教育に,欠かすことのできない貢献をしていると確信していたのであるから。─しかしこのソクラテスは,人知の限界について強く意識していた。人生のごくありふれた,ごく基本的な事柄においてすら,われわれの理解力は限界をもっている。われわれは物事を知っていないし,また知ることができない。そして神々はそれらを知っているのである。」(17頁)

人間は知らないが,しかし神々は知っている。例えば,自然について。

ソクラテスにとって,自然は神秘に満ちたものである。われわれは生命というものを十分に説明できるか。われわれは,自然物が現在あるような仕方であることの理由を理解しているか。あきらかにソクラテスは,自然における有機体の構造が効果的にできていることは,その原因として神的な知性が存在することを示している,と信じていたようである。」(19-20頁)

著者は,さらにプラトンアリストテレスに関しても,次のように述べている。

「・・「プラトンにとって神は何であったか」という問は,初めに思われたよりは困難な問になったが,同時に,より容易な問ともなった。より困難な問であるのは,正しい答が,プラトン哲学の真の理解を前提にするからである。・・・正しい答えのためにはさらにはさらに,ギリシアの宗教伝統の内に含まれる折衷主義をある程度まで理解する必要もある。私の言うのは,哲学思想の枠内に民間信仰の多神を位置づけようとする,あの宗教思想のことである。これがプラトンに固有のことであって,たとえばアリストテレスも伝統的な多神論を自分の哲学体系の中に組み入れている。・・・近代の読者は,アリストテレスにとって「神」は第一動者であり,また第一動者だけであったという印象を受けるかもしれない。だがしかしそうではない。第一動者は全系列の頂点に立つものなのである。そしてこれら多数の不動の原理の正確な数が定められた後に,アリストテレスは,この厳密な学問の説は民間宗教の伝統とまったく一致すると,まぎれもない満足をもって述べている。─われわれの祖先が「第一の諸実体」が神々であると考えたのはまったく正しい。「大衆を説得する為に」彼らは,これらの実体に神話的な,人間の形姿を与えたのはたしかである。だがともかく,彼らの考えは根本では正しかったのである,と。」(67頁)

近代の哲学研究が,古代ギリシア哲学のこのような側面にほとんど注意を払わずにいたことを,著者は批判する。
このような著者の視点が,現代におけるギリシア哲学研究においてどのような意味をもつのか(もったのか)について,詳らかにする能力はもちあわせていない。
しかし,このような著者の問題関心は,現代日本において,あらためて重要になってきているように感じる。
というのは,現代日本における西洋文明観が「自然支配」や「一神教」という言葉によって極めて単純化される一方で,それと比例するかのように日本文化に対する溺愛の傾向が顕著になってきているように感じるからだ。
しかし,古代ギリシアにおいて,ということは西洋文明の基盤において,自然は生命であり,神秘は深く確信されていたのである。つまり,西洋自体の中に,近代西洋とは異なる知的基盤があったのである。(この基盤については,さらにはソクラテス以前の哲学にさかのぼって,ギリシア的な存在神秘を強調する議論も盛んであるが,ここではふれない。)
このような基盤を思い返すことは,世界の思想の歴史における日本の位置をより正確に摑むのに役立つのではないだろうか。逆に,それをみないでいることは,思想的ナルシシズムを呼び起こすのではないだろうか。

自然支配的な近代と対決するための根拠地を,「古代ギリシア」に求めるか,あるいは日本の文化的保守主義のように「縄文」や「大和心」に求めるか・・・いずれにせよ重要なのは,そこから自己像がどのように現れてくるのかということである。
西洋など世界の諸地域の文明を正当に評価できないということは,つまり,自己に対する正当な評価ができないということを意味するのではないだろうか。