「目あきのおごり」

ヴァルター・ベンヤミンボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」『ベンヤミン・コレクションI 近代の意味』浅井健二郎編訳,久保哲司訳,ちくま学芸文庫,1995年
山口昌男「神話的感受性の帰来」『仕掛けとしての文化』講談社学術文庫,1988年


今年の2月末にキャンパスが移転してから,利用する公共交通機関も変わった。だいぶ時間が経ったが,まだ慣れることができないでいる。
今までよりも時間を気にしなければならなくなったことも大きいが,それはむしろ眼の負担によるのかもしれない,とベンヤミンを読みながら思った。
ヴァルター・ベンヤミンは,大都市における人間の眼の負担について,ジンメルの記述を引用して述べている。

「大都市の人間の眼が,身の安全を守る機能で酷使されていることは明白である。ジンメル(一八五六−一九一八年。ドイツの哲学者,社会学者)は普通あまり気づかれていない眼の負担を指摘している。
「見えるだけで音が聞こえない者は,音が聞こえるだけで見えない者よりも,はるかに……不安な気持になる。ここには大都市……に特有のものがある。大都市における人間相互の関係は,……視覚活動が聴覚活動に比べてあきらかに優勢であることを特徴とする。その第一の原因は,公共交通機関にある。十九世紀における,バス,鉄道,路面電車の発達以前には,人びとが何十分,それどころか何時間も,お互いに一言も交わすことなしに見つめあっていなければならない状態に置かれることはなかった」(『社会学』一九〇八年,第九章付説「感覚の社会学について」)。」(ベンヤミンボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」『ベンヤミン・コレクションI 近代の意味』,475頁)

視覚活動が優位する大都市社会に関するこの記述を読んで,西アフリカのナイジェリアの土地の「盲人」が述べたという「目あきのおごり」を思い起こした。

「私たち盲人は,一日単位では,目あきと較べるとたしかに何も見てないに等しい。しかし,明日・明後日と先に行くにつれて,私たちの方がよく見えるということに目あきは余り気がついていませんね。私たちはたしかに眼は見えません。しかしその代償として,心の眼を与えられています。心の眼は,耳・身体・足・鼻・その他諸々の器官を「見る」ために動員するのです。それに,これらすべてを融合して,「遠く」を見るために,周りのものに対する「優しさ」が加わらなければなりません。暗闇は私達盲人にとって絶望的な試練を与えますが,それは又無限の優しさを曳き出して来ることの出来る源泉です。目あきの人はこうした暗闇を凝視することは出来ません。私たちは「心の眼」を通して,暗闇の彼方から立ち現れる物を見ているのです。」(山口昌男「神話的感受性の帰来」『仕掛けとしての文化』講談社学術文庫,1988年,261頁)

文化人類学者の山口昌男は,このような「こころの眼」をもつ老人が話す昔話の生き生きとした様を伝える。

「彼が語る時,昔話は,他の人間が語るのと同じ言葉で語られていても,それらの言葉は,周りの光景と融け合い,そうした事物の根に達し,世界を全く見なれない新しいものに変える力をもっていた。」(前掲書,262頁)

昔話の物語り行為が「世界を全く見なれない新しいものに変える」。このような語りの力をもつのが視覚のある人ではなく「盲人」であるという事実は,現代社会が失ったものについて示唆するところが大きい,と思う。

「彼と生活を共にしているうちに,私にも,何か見えて来るような気がして来た。神話というのは,これだなという実感が湧いて来た。それは神話学概論をいく冊読んでも書かれていない事柄であった。私たちの生活の中で,私たちが人間中心に,損得ずくで使っている言葉も,一見,荒唐無稽な筋の中に投げ込まれると,効用性を失ってしまう。損得ずくで使っている言葉や話の筋は,私達を他人や私達をとりまく他の事物と表面的には結びつけるけれども,深い層ではつながりを断ち切ってしまう。
何故ならば,誤解を恐れ,あげ足とりを恐れる余り,私達は,そうした言葉を,最も定義しやすい意味だけに限定して使うからである。それに馴れてしまうと,私達には,もうそれ以外の意味で,人や周りのものを理解する力が無くなる。次に来るのは,人や周りのものを限定された意味の中に押しこめておこうとする強制的な努力で,これは,それを越えるものを破壊しようとする横暴な姿勢である。」(前掲書,262-263頁)

「盲人」は,「心の眼」をもって,「無限の優しさ」をもって,「暗闇の彼方から立ち現れるもの」を見る。
近代は,この「暗闇」を物語ることをやめ,それを「効用性」の明るさによって追い払った。しかし,この明るい世界に生きる者は,往々にして,ジンメルの言う「見えるだけで音が聞こえない者」となり「不安な気持」におちいってしまうのではないだろうか。

バスに揺られながら感じるのは,この人工的な交通機関の隠れ所のないまぶしさである。他方,窓の外に広がる風景は,古代の国がひらかれた幽玄な趣をいまなお残しているかのように感じられる。
新しい通勤路になかなか慣れることができないのは,この対照性によって,今まで以上に「効用性」の明るさが強まり,「眼の負担」となっているためではないか,と思うのである。