人間は被造物

田川建三キリスト教思想への招待』勁草書房、2004年


現代においてとてつもなく出来る学者、といって思い当たる人は、不勉強のせいもあるが、それほどいない。しかし、この本の著者は、まぎれもなくその一人だ。
これまでの田川氏の著作になじんできた人にとっては、この書物(のタイトル)に少々違和感を抱くかもしれない。あれだけ激しいキリスト教批判を遂行してきたひとが、なぜ「キリスト教思想への招待」を書くのか、と。
でも、そうした疑問は、中味を読めば氷解するだろう。キリスト教の(著者の視点からみて)批判されるべき点について、やはりいつも通りしっかり書かれている。その点をふまえたうえで、何を学ぶべきであるのかが書かれている。その意味でも本書は、キリスト教的なものを何でも褒めそやすおめでたい本ではなく、「案内付き招待」となっている。
とはいえ、次のような疑問を抱く人もいるだろう。ある宗教の良いところと悪いところを区別するというその視点は、何によって正当化できるのか、と。それもまた、ある種の宗教的な観点にすぎないのではないか、と。
このような問題を考えるときに重要なのは、具体的な問題に即して考えることだ。田川氏は何を問題として、何を評価するのか。田川氏の視点の正当性を問うのだとすれば、その後からでなければならない、と思う。
まず、著者が学ぶべき思想として取り上げるのが、神による「創造」の思想である。そして、それと対比されて否定的に述べられているのが、「ユダヤ民族絶対主義」や「キリスト教絶対主義」などである。
思想のモチーフは冒頭の一節に明瞭に述べられている。

「人間は被造物である。自分で自分を造ったわけではない。造られた存在である。神によって造られた、という。しかし、たとえ神なんぞ存在しないとしても、人間が被造物であるという事実に変りはない。人間は自分自身の主人公ではない。自分で自分を好きなように左右できるわけではないからだ。人間は、自分自身にかかわるこの事実に対して、謙虚でないといけない。しかし、我々の時代の人間は、まさに、この事実に対する謙虚さを失っている。いつの間にか、人間のことは自分が好きなように動かしてよいのだ、と思いはじめている。これはひどい思い上がりではないのか。」(3頁)

ただし、だから「創造主」である神を覚えよ、などと著者は言わない。

「我々は今はもう、神様のことなんぞは考えなくてもいいけれども、古代人の考えた創造信仰をもう一度謙虚に受けとめなおす必要があるのではなかろうか。」(4頁)

この大自然の中で、さまざまなものをいただいて生かされているという事実を、それとして認めて感謝して生きること──それが著者の、いわば「神なき創造思想」である。
ところで、創造思想は、「創世記」劈頭の天地創造の物語にもかかわらず、ユダヤ教においてもキリスト教においても、主流であったわけではない。「旧約聖書の冒頭にいきなり創造神話が出て来るものだから、誰しもが・・・・・・旧約聖書の基本精神は創造信仰だと思い込んでいる。だが、実は、そうではない。」(6頁)
それはなぜか。

「何故か。当然のことである。旧約聖書ユダヤ教の正典である。ユダヤ民族絶対主義にこりかたまって・・・・・・ユダヤ人以外はみんな殺してもかまわない、という精神に満ちているような書物である。」(7頁)

まじめな保守的な信仰の持ち主は、こうした言い方はあまりに一方的ではないか、と思うかもしれない。しかし、たしかにヨシュア記などを読むと、そういう精神を認めないわけにはいかないだろう。
このような民族的絶対主義は、創造信仰とは相性がよくない。

「ともかく、神が天地万物を創造した、と信じようと思えば、神がすべての人間を創造したということも信じねばならぬ。とすれば、視野はいやでも広がる。自分の民族のことだけを考えている視野からでは、天地万物人類の創造の信仰は生まれ難い。すべての人間が同様に神によって造られたのであるならば、民族絶対主義なんぞ、けしとんでしまう。神の前ではみんな同じなのだから。」(7頁)

歴史を振り返ってみると、創造信仰が目立ってくる時代もある。たとえば、まだキリスト教が公認される前の二世紀後半である。

キリスト教の唯一絶対神の存在を論証するのに、自然世界の創造を引き合いに出す。・・・・・・/・・・最初期のギリシアキリスト教以来、この種の創造信仰はそのために語らえてきた。」(13頁)

弁証のために語られる、ということは、それ(自然世界の創造)を一般の人々が認めるに違いないと期待できる風土があったということだ。著者は、このような自然観の風土を次のように述べる。

「一見、いかにも素朴な、古代人らしい自然観である。しかし、我々現代人はこれを、素朴だなぁ、と言ってすますことができるだろうか。そういう権利があるだろうか。ここには我々が現代文明の発達の故に、思い上がって傲慢になり、忘れてしまっている貴重なものがあるのではないのか。この自然を前にした驚き、その前での謙虚さが。」(13頁)

著者は、このような常識的な創造信仰の健全さと、ユダヤ教独特の思想あるいはキリスト教独自の思想を強調する独善主義、絶対主義(カール・バルトが例に挙げられている)を対比し、前者に共感を示している。これは、大いに学ぶべき点だと、個人的にも思う。
もちろん、これ自体、先に記したように、ある種の宗教的な感覚にすぎないのではないか、と思う人もいるだろう。
私自身はこうした問題を考えるとき、宗教思想内部の論理よりも、社会におけるその働きに注意してはどうか、と考える。
しばしば、何であれ内部に入ると、内部の論理を先鋭化するものが、内部の人々からは評価されるものだ。逆に、外部との共通点を強調するのは、内部の独自性を揺るがすために、内部からは評判が悪い。さまざまな人間集団において、絶対主義や独善主義が生み出される理由はそのあたりにあるように思う。そして、そのような絶対主義や独善主義は、やはり今なお人類にとっての大きな課題だと思うのだ。
そのような独善性を鋭く批判する著者の立場は、それ自体が古代の自然観のむしかえしで何も新しいものはないではないか、などと批判すべきものでは決してない、と思う。むしろ、そこから学ぶべき点が多くあるのではないか。
本章の後半は、日本における自然観の異様さに対する批判の言葉がくり返しくり返し論じられる。この記述に、慣れない読者は辟易するかもしれないなぁと心配するほどだ。
前回(5月22日)の日記にも記したが、日本の(いや、おそらくはどこの国でも)文化的保守主義の言い分というのは、手前勝手なものが多い。ところが、そうした見解こそ、多数生産され、流通させられ、消費されていく。
人間として当たり前のことを考えるというのは、決して当たり前のことではないのだ。