宗教の倒錯

上村静『宗教の倒錯 ユダヤ教イエス・キリスト教』岩波書店、2008年


本書の冒頭に掲げられた問いは、現代の多くの日本人が抱く疑問を表現したものだと思われる。

「<宗教は人を幸せにするためにあるはずなのに、なにゆえその同じ宗教が宗教の名のもとに平然と人を殺してしまうのか?>」(1頁)

宗教に詳しい人は、「宗教は人を幸せにするためにあるはずなのに」というのがそもそも思い込みなのだ、と言うかもしれない。
しかし、現代の日本でこのような「素朴な問い」が現実に存在する限り、それを非難してもはじまらない。宗教の有している積極的な内実を忘れ去らないためにも、この問いには真面目に向き合わなければならない。
本書はこの問いに対して、キリスト教をとおして答えようとする。
考察に先立って、著者は「聖書は神話である」(3頁)と明言する。おそらくその意図には、いまなお聖書を「「神の言」としてその唯一絶対性・真理性を主張する」人びとに対する注意の促しと、「神話」というものに対する積極的な意義づけがあるのだと思われる。

「聖書が神話であるということは、聖書が空想に満ちたおとぎ話の寄せ集めであるということを意味しない。神話には、古代人の人間についての洞察が含まれている。人間とはなにものなのか、人はどうあるべきなのか。こういった人間の本質にかかわる問いは、直接に説明的な言語では、科学のレポートや新聞記事のような言語では十全に表現することはできない。古代人は、神話という象徴的な言語を用いてこうした問いに間接的な形で答えているのである。そこには現代人にとってもなお有意味な真実が含まれている。」(3頁)

このような神話が有する真理の契機を「現代人に理解できるものへと抽象化することを<非神話化>、それを現代に向けて語りなおすことを<再神話化>」(4頁)と著者はよぶが、本書は、神話が有する暴力的な契機─本書は特に「キリスト教排他主義反ユダヤ主義」に注目する─を明らかにしながら、それの有する真理の契機を語りなおす<再神話化>の書物である、といえよう。
以下、キリスト教の根源にある排他主義について簡単に紹介する。これは、キリスト教を素材とした分析であるが、他の多くの宗教にも共通する特質だと思われる。

キリスト教とは、生前のイエスの宣教活動に従っていた人々が、イエスを裏切ったのちに、イエスの復活という信仰を得て、キリストとしてのイエスを宣教してゆくことにはじまる。
生前のイエスが宣べ伝えた「神の国は近づいた、悔い改めて福音を信ぜよ」という使信と、イエスの死後、弟子達によって宣べ伝えられた「キリスト神話」との違いを、著者は次のように説明する。
まず、イエスの使信について。ここでは被造物に対する神の支配について論じている箇所を紹介する。

「有名な「思い煩うな」(ルカ一二22-34/マタイ六25-34)というイエスの言葉は、神の支配下にある自然界および人間についてのイエスの理解を示している。そこでは、何を食べようか、何を着ようかと思い煩うなと言われる…。なぜなら、カラスは「蒔かず、刈らず、倉に納めることもしない」のに「神はそれらを養って」いる……」(200頁)
「イエスは……何もしないままに生かされて在る<いのち>をアピールする。それは、人間の思い煩いにかかわらず、すでに生かされてしまっている人間存在という現実を指し示す。「神の支配」とは、被造物を生かす神の働きなのである。」(201頁)

この箇所は、前回紹介した田川建三氏の「創世記」読解と通じる(6月2日参照)。そこで取り上げた「創世記」一章の「常識的な創造信仰の健全さ」が、福音書のイエスの言葉にも反響している。
このイエスの思想を著者は、一元論という言葉でとらえる。

「…ローマ支配下にあった後一世紀のパレスティナでは、終末待望─二元論的歴史観─と結合した民族意識が高揚していた。それは対内的には「ユダヤ人らしさ」の要求と結びつき、律法遵守の度合いを基準としてユダヤ人内部を漸次的に「義人」と「罪人」に二分する二元論的人間観が民衆レベルにまで蔓延した時代であった。それは社会に差別の連鎖を引き起こし、社会の底辺におかれている者たち─穢れたと見なされた職の者、病者など─は、「罪人」のレッテルを貼られ、宗教的にも社会的にも共同体から疎外されていた。
そうした時代の空気のなかで、イエスは、「罪人」と恒常的に交わり、彼らを共同体に復帰させるべく活動した。それは同時に、「義人」および差別を現実のものとし続けている市井の民衆に対する問いかけと批判をも伴った。イエスは、業績─律法遵守の度合い─が人間存在の評価基準にはならず、いかなる者も神によって等しく生かされて在ることを訴える。イエスの人間観は一元論なのである。」(203-4頁)

このイエスの使信は、キリスト教においても、「新約聖書」の中のイエスの言葉として残された。しかし、キリスト教は、イエスの使信のみならず、むしろそれよりも強力なキリスト神話の教義を通して、自らを建てあげることになる。
ここに、キリスト教排他主義の根っこがある。

「イエスは「神の支配」について語ったが、それは関係のなかで生かされて在る<いのち>という洞察を象徴する一つの表現であった。キリスト神話もまた生かされて在る自己という洞察を表現するものであり、この人間存在についての洞察においてイエスの使信とキリスト神話は共通する。しかし、イエスは「神の支配」についての使信を、それを受け入れるか否かによって救済か滅びかが決定される基準、救済論的ドグマにしなかったが、キリスト神話の担い手はキリスト神話を唯一絶対の真理とし、キリストへの信仰を救済の条件とした。神話はドグマとされた。ここにイエスと彼らとの断絶が生じた。」(225頁)

キリスト教のドグマ形成に対する最大の功労者がパウロである。

パウロは、律法遵守にきわめて熱心であったが、キリストとの出会いを通して、実は自分で行なう律法の業によっては義とされず、かえってキリストの死にいたる信によって自らが救済されたと確信するにいたった。パウロは、自分が信じたから救われたのだとは思っていなかっただろう。むしろ、何一つ自己義認のための手だてがないなかで救済を確信し、それに対する<応答>として自らも<信仰>をもったのである。したがって、その段階においては、パウロの自我は確かに克服されていたと言えるだろう。しかしながら、パウロは救済を「義とされる」と語る。すなわち、罪あるありのままの自分を受け入れることができず、義認を「欲する」…のである。ここには、パウロの超剋しきれないエゴがある。」(250-251頁)

このエゴによって、何が生じるのか。

「「義」について語ることによって、パウロは「罪」にとどまっている(と見える)人びと(他者)から自らを切り離してしまう。パウロは、自分自身何もできずにいたときに、信仰もなかったときに、キリストの信によって救済されたはずなのに、その救済を「義認」と語ることによって、罪の下にある他者に「信仰」を要求することになる。」(251頁)

ここに著者は、「応答であったはずの信仰を救済の条件、救済の手段にしてしまう」(251頁)パウロ神学の根本問題を認める。
応答の信仰と手段と信仰。前者から後者への移行、あるいは両者の混同、混淆を通じて、宗教に支配と差別の種がまかれる。

パウロは「律法の業による義」を否定しているので、割礼や安息日規定や食物規定は否定するのだが、律法に含まれている倫理規定については、それを律法なしに遵守することを要求する。……それは、倫理的な完璧主義であり、しかもその倫理とは当時のヘレニズムおよびユダヤの文化規範なのである。……パウロが「悪徳」としているものが、本当に「悪徳」「非倫理的行為」「罪」であるとは言えない─「『男らしくない男』は罪ではない」。それにもかかわらず、キリスト者はそうした社会通念に従って完璧に倫理的に生きることが求められてしまう。」(255頁)

以上、本書から宗教のもたらす問題の側面を取り上げた。それは、終章のことばをかりれば「神話の絶対化と宗教エゴ」の問題と要約できるだろう。パウロは、ユダヤ教の律法主義の「宗教エゴ」は克服したが、しかし、「「信による義」という表象を絶対化」(314頁)するあらたな「宗教エゴ」に絡め取られた。
このような「神話の絶対化と宗教エゴ」は、しかしながら、イエスの一元論的な人間観が背景にあってこそ明確に自覚化され、描き出される問題ともいえる。だから、およそ宗教に関するもの全てを否定することが、著者の意図なのでもないし、また本書を紹介した狙いなのでもない。
エスの一元論的な人間観、あるいは田川建三氏も指摘した健全な被造物信仰(信仰という言葉に抵抗があるのならば、被造物意識と言ってもよい)、あるいはまた本書の著者が言うところの、<いのち>。宗教の批判は、このような次元の切り拓かされる場につながらなければならない。それが、例えば科学や経済の一元論に通じるとすれば、それこそ現代における世俗的神話の絶対化にすぎないだろう。

「<神>は「歴史」に介入したりはしない。しかし、<いのち>を生かすために、日々、働き続けてはいる。「関係のなかで生かされて在る<いのち>」という象徴表現は、「神」という言葉を必要としないが、あえて<神>について語るならば、それは<いのち>を生かす働きなのである。」(315頁)

現代の聖書学の先端は、このように「神」を必要としない地点に行き着いている。しかしこれは「無神論」というものとは異なる。それは、「神」的象徴の絶対化を克服する<神>の働き、といえるだろう。神話は、このような形において語り直されることを求めているのである。