創造と愛

坂口ふみ『信の構造 キリスト教の愛の教理とそのゆくえ』岩波書店、2008年


西洋思想史の授業で、授業の最後に学生の感想等を書いてもらい、終了時に提出してもらうことにしている。
先日の、創世記の第1章を読んだ授業の後では、「神が御自分にかたどって人を創造された」(創世記1章27節)という創世記の記述から人間中心の思想が読み取れる、という感想の記述が多かった。
なるほど、人間の手によって書かれた創世記が、人間を神に通じる存在と規定した上で、「海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」(創世記1章28章)と書いているのを読めば、そこに人間中心の宇宙観を読み取るというのも、あながち無理なことではないかもしれない。
しかし、私が授業で強調したかったことは、これとは全く逆である。

創世記を素直に読めば、神中心主義というほかない。しかしそれを、神中心主義ではなく、人間中心主義と読み取る。この読替の回路の自覚は、現代の想像力の特質を浮かび上がらせはしないだろうか。
私が授業で強調したかったことは、創られた存在としての人間という創世記の人間観であり、そのような人間観の有する人間中心主義を越える可能性についてだった。
それは、ここ2回で紹介してきた田川建三氏の『キリスト教思想への案内』や上村静氏の『宗教の倒錯』にもかかわる。今日とりあげる『信の構造』も、この観点からみてみたい。

キリスト教の特徴の一つは、神が人になったという「受肉」の考え方にある。

「…キリスト教思想のおもしろさはまさにその点にある。……」(viii頁)
「この宗教はだから当然、ほかの宗教とは比較にならぬほど、肉体を高く評価する要素を持っている。…………全く非物質的存在たる天使に対し、どうやって肉体を持つキリストを理論的に上位におくかというのは、古い古いキリスト教ギリシャ思想の争点の一つである。一三世紀のボナヴェントゥラのように、キリストを重視する思想家は、当然ここでもスコラ理論の枠が許すかぎり人間の肩を持つ。彼が、ある意味で人間の方が天使よりすぐれて神に似ているとする点はすべて、人間が肉体を持つことに依存しているのもおもしろいことである。」(ix頁)

もちろん、キリスト教思想史全般が、こうした思想の傾向で染め上げられているわけではない。人間の「肉」の有する罪の傾向に対して絶えず警告が発せられ、肉体(の欲望)を罪悪視する禁欲思想の潮流は絶えることがなかった。
しかし、キリスト教のなかにある「受肉」思想の意義を評価する観点からは、キリスト教の、禁欲主義的二元論では強調されることのない光景が浮かび上がる。本書第一部のむすびでは、現代思想の核心にも関わる記述が次のようになされている。

キリスト教の影響下に新たに生じ、ヨーロッパ文化の核となった、ある精神のあり方……それは第一には、ペルソナ、ヒュポスタシスまたはエッセという語で仮りに語られるものの発見であり、それへの志向である。この、存在の核心なるものは、あらゆる概念的・カテゴリー的固定化、理論、形而上学などを、すべておりおりの人為的な構成として相対化し、利用もするが必要とあれば破壊し、読み替え、創り変えるための支柱となる、名状しがたいダイナミズムである。概念性や理論性の双児の兄弟である制度や習慣や権力に対しても、これは同様にふるまう。」(92頁)

「ペルソナ」について、著者は、「神の内にも、人間存在の底にも、「自然」と言われる世界の底にも働いて、それらを存在せしめ、またそれらあらゆるものの間に関わりをうちたてているはずの、とらえがたく流動して透明な、愛の働きのまぼろしではあるまいか」(17頁)、という。
父なる神、子なるキリスト、聖霊なる神は神の三つの位格(ペルソナ)の本質は同一である、とキリスト教は教える(三位一体)。ところがキリスト教では、神のみならず、人もペルソナだという。この「ペルソナ」という思想の特質を著者は、上のように説明したのである。
また、もともと「基体」というほどの意味の「ヒュポスタシス」というギリシア語は、「神のある特定の顔」「神のある特定の役割」を意味する「ペルソナ」の存在構造を語る言葉として採用された。それは、三位一体の思想を表現するために次のように使用される。「神は一つのウシア(実体)と三つのヒュポスタシス(ペルソナ)を持ち、キリストは二つのピュシス(本性)を持つ一つのヒュポスタシス(ペルソナ)である」(39頁)と。
そして、ペルソナ、ヒュポスタシスの存在の動態は、ラテン語の「エッセ」(存在)という言葉にも刻まれる。神や人間をつらぬく存在性とでも言うべきもの、これが、絶えず現実を相対化し流動化する働きとして作用するところに、西洋思想史の根源的な特質を認めることができる、という。
ところで、ここで注意すべきは、この存在観が世界を単に流動化させ相対化させるのではなく、愛の働きと結びつけられていることである。

「ヨーロッパの精神性はさらに、この[上で引用した]第一の特質と緊密に結びついている第二の特徴を持っている。それは、概念や理論で整理される以前の、できるかぎりなまに感知される現実……への鋭く熱い熱意であり、まなざしである。芸術・思想・科学とその核心は、このまなざしによって支えられている。そして、この熱意を支えるものは、受肉の信念とも言うべきものである。つまり、この、私たち自身であり、または私たちにじかに触れている現実が、何か超越的なもの、深く善なるもの、愛そのものの働きであり、あらわれであり、それを語っているはずのものだという信念である。」(94-95頁)

この現実の世界が神の愛の働きとつながっているという信念、そこにヨーロッパの精神性の中核がある、と著者はいう。
世界の存在の根底にある「愛の働き」を表現したものとして、新約聖書の中のイエスの言葉─たとえば「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイによる福音書五章)─が思い起こされる(もちろん他の宗教にも優れた言葉があるということを否定するものではない)が、著者もまた、イエスの教えの中にそれを認めて、次のように述べている。

「…私は一人の、信者でもなく専門家でもない者として、イエスの教えの内容の内の、律法の基礎・完成としての愛の教えと、弱く貧しく苦しむ者への幸せの福音を、もっとも私に語りかけるものとして、福音書の中核として読みたいと思う。受難と死の物語も、復活の物語も、その中核を敷衍し増幅する物語として。そのとき、たとえイエス福音書パウロやのちの神学が語るように神のひとり子であり、復活し、栄光の内にあると文字通り信じなくとも、それらの物語は理解可能となる。イエスの教えた愛の壮大な物語化として。…」(162頁)

世界は神の愛の働きによって存在せしめられているというイエスの思想は、創世記の、世界は神の創造によって生まれたという世界観とも深く結びついているように思われる。
このような思想にふれることによって、世界の現状を実体化してみたり、あるいは世界を相対化してシニカルな態度をとったりするのではない、別の生き方の可能性を望見することができるのではないだろうか。