子どもへのまなざし

佐々木正美『続 子どもへのまなざし』福音館書店、2001年


先週、気になる事件の地裁判決が言い渡された。2008年3月、JR岡山駅岡山県職員の男性が18歳の少年に線路に突き落とされて死亡した事件のことである。
岡山地裁は、少年の有期不定期刑としては最高刑にあたる懲役5年以上10年以下を言い渡した。
事件が気になったのは、被告の少年が精神鑑定で「広汎性発達障害」と診断されたからである。

遺族の気持ちを考えると、被告を弁護するかのようなコメントをするのは心苦しい。しかし、こうした事件を冷静に理解するために、ある発達の特性をもった人に対する認識を社会の共有財としておくことは、それなりの意味があると思う。

裁判の結果を報道する新聞記事解説には、児童青年精神医学の専門家の次のようなコメントが載せられた。

発達障害の人の中には、わずかな否定的な言葉を重く受け止めパニックになる人もいる」「本人が追い込まれないよう、保護者や教員ら周囲が苦手な部分を適切に支え、本人も自分の弱点や長所を把握していれば、反社会的行為にはいたらなかったはず」(朝日新聞6月18日朝刊(西部本社版)35面)

冒頭に掲げた書物は、このコメントを述べた佐々木正美氏によるものである。

本書で佐々木氏は、興味深い経験を伝えている。
小中学校の時代に長期の不登校を経験した生徒が集う全寮制の高校からカウンセリングを頼まれた。その学校は、本日記でも紹介したことのある杉山登志郎氏(2008年8月11,14日)もカウンセリングの応援をしている(本書刊行時)とのこと。
それだけでも、しっかりした考え方をもって運営している学校だということが伺われるが、その学校の中での様子。

「極端な生徒の場合には、母親にはぐれちゃ大変だと「ママ、ママ」といって、洋服の端をつかんで離せない幼い子どものように、寮母さんの洋服の端をつかんで離さないということもあるのです。知能の発達は正常で、体の成長もよく健康なんですけれど、そういう生徒がいるんですね。」(237-238頁)

このような生徒の行動を、佐々木氏は「母なるもの」への求めとして理解する。

「そういう生徒たちの様子をみていると、私は、彼らは「母なるもの」を求めているのだろうと思いました。「母なるもの」というのは、ありのままの子どもを受け入れることができるということです。子どもにとっては、ありのままの自分を承認してくれるところが、自分の居場所であり、くつろぎ、やすらげる場所なんでしょうね。
ところが、幼児期にそういう母性的なものを、十分に感じることができないまま大きくなった子どもたちは、幼児期のやり直しをするかのような行動をするのです。」(238頁)

「母なるもの」という呼び方は、ジェンダー的に言えば、問題があるのかもしれないが、それは措く。
ここで確認したかったのは、「発達障害」のない普通の子どもでも、自分がまるまる承認されているという感覚が、「発達」のために不可欠だということである。
発達障害」をもった子どもの場合も同じであろう。しかし難しいのは、彼らの世界が独特で、「健常者」の常識的な世界となかなか交流できない点にある。

自閉症注意欠陥多動性障害学習障害といわれる子どもたちの問題の本質に、イメージの世界を持つことがとても弱い…[という]特徴もあります。イメージの世界を持つことができにくいということは、目にみえないものの理解が非常に弱いということです。ですから、こういう子どもたちに共通してできない遊びは、鬼ごっこやかくれんぼです。
この子たちに鬼ごっこが、なぜ理解できないのかといいますと、鬼と鬼でない人のちがいの意味が、みえないからです。みえないというよりは、理解できないといったほうが、いいかもしれませんね。鬼にどういう意味があるのかということが、想像できないのです。」(347-348頁)

もちろん、鬼のないところに鬼を見立てることの危うさもある。想像力は決して害のないものではなく、ある場合には非常に危険な働きもする。
しかし、その危険でもある想像力が社会的共同性を成り立たせもする。だから、鬼が見えない者はそこから疎外される。彼らの受容は、容易ではない。

「…[障害のある子どもは]平気で約束事を破る、しつけのわるい子にみえることがあります。あるいは、わがままで自分勝手な子どもに思われてしまうことがよくあります。たとえば、こういう子どもたちのなかに、よく他の子をたたく子がいます。
そういうとき、私たちは口でいってもなかなか直らないので、その子にたたかれたときの痛みを教えてあげたら、やまるかもしれないと思ったりしませんか。そして、その子のおしりをぶったり、頭をこつんとするとかして……[でも]親や私たちが、そういう保育や教育をしても、こういうタイプの子には伝わらないのです。
たしかに、自分の痛みはわかりますけれど、相手の痛みを想像することができないのです。」(348-349頁)

誤解をしないでほしいのだが、だから障害をもった人たちとはコミュニケーションが不可能だ、と指摘したいのではない。そうではなく、彼らのそのような特性に即した教育が必要なのであり、それに即した受容が求められるということを言いたいのである。
ところで、受容なき教育は、結局は健常者になることを目的化し、彼らから安心していられる場所を奪い取るおそれがある。その問題性は、上の不登校者の例からも明らかだと思う。
他方、教育なき受容も、現実的ではない。彼らを受容するよう世間に訴えることはたしかに必要なことだけれども、変わりにくい世間のなかで実際に生きていけるようにするためのスキルを身に着けるための教育も不可欠のはずだ。
ところが実際は、そのような受容や教育から外れてしまうことが多い。たとえば、代表的な広汎性発達障害である自閉症の関連障害と言われる、注意欠陥多動性障害学習障害の子どもたち(下の注も参照)。

注意欠陥多動性障害学習障害の子どもたちは、しばしば障害と思われないのです。とりわけ、家族の人がそう思っていませんね。……」(358頁)
「一見、口が達者にみえますから、親からみると、いろいろなことが上手にできないくせに、生意気なことばかりをいう、あるいは、わがままな子だ、こういうふうにみえてしまうことがあるのです…
……
この子たちは、家庭にいても兄弟の何倍も、しかられているのではないでしょうか。ほどんと毎日のように注意を受けている、怒られている、たたかれていると思います。……
……
この子たちが、学校に入るようになりますと、学校では、ほとんどの先生方が「しつけのわるい子だ」「わがままな子だ」というふうに思ってしまいます。…」(359頁)

もっとも、この本が出版されてからもだいぶ月日が経ち、日本社会も大きく変わりつつある。
特に、2007年4月から「「特別支援教育」が学校教育法に位置づけられ、すべての学校において、障害のある幼児児童生徒の支援をさらに充実していく」(文科省HPより)方向に舵をきったのは、大きな変化である。
しかし、個人的に思うのは、そのような児童生徒をどのように支援するのかという方法やスキルに関わる問題だけではなく、何故支援するのかという哲学に関わる問題もまた重要ではないか、ということである。
哲学的な問いかけぬきになされる教育は、受容なき教育への傾向を生み出しかねないように思われる。実際、文科省のHPにある特別支援教育の紹介の文章は「自立や社会参加に向けた主体的な取組」という側面を強調し、彼らを受容するという側面はあまり見えない。

私たちの共にすむ社会が、世間的な常識をもたぬような人を何故、どのようにして受容するのかという問題は、私たちの社会の質を根源から問いかける問いではないだろうか。
その問い返しのなかで、問題は、彼らだけではなく私たちなのでもある、ということが見えてくるように思う。


(注)日本自閉症協会による『自閉症ガイドブック シリーズ3』によれば、「広汎性発達障害」とは、自閉症の三つの行動特徴(対人的相互交渉における質的な障害・意思伝達の質的障害・行動、興味、活動が狭く反復的で常同的なパターン)のすべて、あるはいくらかあるものをも含めて言い、自閉症スペクトラムという言い方が使われることもあるという。また、同協会による『自閉症ガイドブック シリーズ2』では、自閉症の関連障害として「学習能力の特異的な発達障害」と言われる学習障害、知能は正常範囲にあることが多いが多動や不注意を顕著に示す注意欠陥・多動性障害が挙げられている。