架空物語を愉しむ権利

チュコフスキー『2歳から5歳まで 普及版』樹下節訳、理論社、2008年


だいぶ前に中学のころからの友人と話をしている時のこと、子育てのために何をしているか、という話になった。
絵本を読むぐらいかな、と言うと、父親として先輩の彼は、本当は絵本はあまりよくないんだってよ、と言った。それより、自然を体験させることの方がいいんだって。絵本は本当の世界を描いているわけじゃないから、と。
いつのころからか、娘は図鑑を眺めることを好むようになって、絵本を読んでやることはなくなったのだが、ふと手に取ったチュコフスキーの本に、上の会話を思い出させる記述が載っていた。
チュコフスキー(1882-1969)はロシアに生まれ、若くして作家生活に入り、子ども向けの作品を残した。訳者である樹下節氏の著者紹介(1984年9月の日付)には次のようにある。
「…1970年代に入って、パステルナークをはじめソルジェニーツィンなど多くの秀れた現代ロシア文学の作家たちが、「反体制的作家」と烙印を押されて亡命や国外追放の憂き目をみた時代に、彼らの多くに対して公然と生活的な援助の手を差しのべたのはチュコフスキーでした。「ロシアの子どもたちはチュコおじさんのワニ物語で育つ」と言われるほどに、四千万余の読者に支えられていたこの大作家を、さすがに追放することは不可能であったのでしょう。」
『2歳から5歳まで』は、1925年に書かれた『小さい子ども』が後年増補改訂されたもので、日本語普及版はその抄訳である。
さて、子どもは絵本や物語の想像的世界よりも、現実の世界の中で遊ぶよう教育されるべきなのか。本書第三章「おとぎ話の世界」から考えてみたい。

1929年、クリミアの保養地で子どもを楽しまそうと思ってチュコフスキーは、『ミュンヒハウゼン』(邦訳題名『ほら男爵の冒険』)を読み始めた。すると、子どもらはたちまちげらげら笑いはじめた。ところが、そこへ教師がやってきて、そんな本を読むことはお断りします、と言う。

「二人は先生口調で、ソヴェトの児童図書は空想や作り話ならぬ、100パーセント現実的な事実を語るものでなければならないと、わたしに言いきかせるのでした。わたしはわたしで、反ばくをこころみました。
「しかしですね、この本は空想や作り話のたすけをかりて、こどもにリアリズムをうえつけようとしているのですよ。ミュンヒハウゼンの冒険にこどもが笑いころげること自体、そのうそをこどもがはっきり知っていることの証明ではないでしょうか。ミュンヒハウゼンの虚構に現実を対置させているからこそ、こどもは笑うんです……」」(240-241頁)

さらに反論は続けられたが、二人の教師は受け付けなかったという。チュコフスキーは、想像力が科学の発展のためにも不可欠であるという(教師らが認める)物理学者の言葉をも用意して、翌日さらに説明をしにいった。
しかし相手の教師は、チュコフスキーが差し出した物理学者の本を押し戻した。

「「読まれないんですか。なぜでしょう?」と、わたしはたずねました。
相手はくちびるをつきだし、もったいぶって言いました。
「わたしは、きょう休みですから」
この人物は、ハリコフで教育を受けたということでした。当時ハリコフでは、プロレタリアのこどもにはおとぎ話も玩具も歌もいらないと主張する教育家や、児童図書関係の理論家グループがはばをきかせていました。」(244頁)

社会主義リアリズムの考え方が児童文学にまで影響を及ぼしていたのだろう。チュコフスキーによれば、架空物語が認められるようにあったのは、1950年代の終わりころからだという。
社会主義リアリズムは、しかしその全盛のなかでも子どもの想像力を阻むことはできなかった。
1920年代末から30年代初めのころ、エー・ヤノフスカヤ女史は『階級的教育の要素としてのお話』というパンフレットの中で、「こどもにお話を与えなければならない時期は、こどもの知力の正常な発達のためにお話がぜひとも必要とされる時でなく、その必要がなくなった時である」(248頁)という考えを述べた。

「もうれつなお話反対論者であるかの女は、モスクワの或る雑誌にこんな論文をのせました。
<非現実的かつ空想的な民話にかわるものとして、現実の世界と自然から取材した、単純で現実的なお話をおすすめしたい>
………
…ところがここに一つおとし穴がありました。わが子に目のない母親の常として、女史はこまかな育児日記をつけはじめました。そして予想もしなかったのに、架空物語の害に関する説を、自らこの日記によってくつがえすはめになりました。」(249頁)

何が起こったのだろうか。

「かの女の日記によりますと……、かの女の愛児は、お話をとりあげられたことを返報でもするかのように、朝から晩まで、とめどもなく空想にふけりはじめました。赤いゾウがかれの部屋へあいさつにきたと言うかと思えば、コーラという雌グマと友だちになったと言います。しまいには、ぼくのとなりのいすにこしかけないでよ、雌グマがすわっているのが見えないの、などと言いだすしまつです。」(249頁)

わが世代の男子ならば、雌グマのかわりに、ウルトラマン仮面ライダーがいたわけだが、今は何があるのだろう。
いずれにせよ、こうしたお話の禁止は失敗に終わるという。なぜなら、

「…こどもたちは自分の精神を守るため、お話といっしょに地下に潜行し、いわば非合法にお話を自分の世界へ密輸入して、利用するからです。」(252頁)

そうは言っても、やはり荒唐無稽のお話はよくないのではないか、という不安を感じる人もいるだろう。それについて、チュコフスキーは次のように述べている。

「これ[特定のお話がこどもにとって有害ではないか、こどもの心理に深い傷を与えはしないかという疑問]は当然な心配で、十分に尊重しなければなりません。
しかし悲しいことですが、わたしたちの教育的経験は、どの範疇のお話が有害であるか、あるいは有益であるか、確かな判定原則を作りだすまでにいたっていません。残念ながらこの点、俗物流の勝手な判断の横行する余地が、いまだに残っているわけです。」(272頁)

やや古い例かもしれぬが、『アルプスの少女ハイジ』はよいが、『クレヨンしんちゃん』は駄目、あるいは、原作の『ハイジ』はよいが、アニメの『アルプスの少女ハイジ』は駄目、というような判断を、わたしも耳にしたことがある。
しかし、チュコフスキーが言うように、確かな判定原則はまだないし、さらに言えば、これからもきっとありえないことだろう。
むしろ重要なことは、どんなお話がよいかということよりも、物語を楽しむ子どもの環境の方ではないだろうか。

「ご承知のとおり、おとぎ話はこどもが或る年齢にたっしますと、煙のように消えてなくなり、魔法、妖術といったものも、自然に磁性をうしなってしまうものです(もっともそれは、こどもが健全な環境の中にいるならばの話ですが)。」(258-259頁)

大人の心配の核心は、子どもがお話を現実として受け止めるようになるのではないか、ということにある。しかし、何故かはよくわからないが、非現実的な虚構をそれとして楽しむ子どもは、その楽しみを十分に満喫するならば、自然とそこから離れることができるのである。
新聞紙面をにぎわす出来事やテレビ番組の中に、幼児性を感じることが多くなったような気がする。それは、社会から要求されるリアリズムが、幼児期に十分に味わうべき虚構の楽しみを子どもから奪っているためではないか、と思ったりする。確かなことは言えないが。また、こうした疑問の問い方自体が定形の批評に堕している気もするが。