偶像崇拝

M.ハルバータム/A.マルガリート『偶像崇拝 その禁止のメカニズム』大平章訳、法政大学出版局、2007年


だいぶ日が経ってしまったけれども、前回の日記では、想像力が人間にとってきわめて重要な精神の働きで、子どもの成長にとっても不可欠らしい、という趣旨のことを述べた。
しかし、想像力が生み出す虚構はおしなべて好ましいものであるというわけではない。想像の多くは人前で言い表せないような類のもので、子どもがそうした想像の世界にばかりいたら、親ならきっと心配することだろう。
この日記は、たびたび想像力やイメージを問題として取り上げてきた(7月4日、6月22日、6月14日、4月28日、4月8日など)。そこでは、想像力がいかに人間にとって不可欠で鍵となる働きをしているのかについてふれた。
しかし、他方で、そのような想像力によって生み出されたものにいかに人間が支配され自由を奪われているか、という問題も軽視することはできない。(そのような側面があるからこそ、想像力の意味を見直そうとしてきたわけでもあるが。)
前回(7月4日)の話題に即して言えば、社会主義リアリズムの児童教育版がいかに非現実的に思われるものであろうとも、その意図においてみればそれは、人間が非現実的な空想や虚像によって支配されている事態と闘う自由の闘争であるということは、─いかに見当違いのものであろうとも─やはり認めなければならない。そして、その闘争は、人類の長きにわたる精神の営みの最も重要な部分でもある。

冒頭に挙げた書物のタイトル「偶像崇拝」に対する、ユダヤ教キリスト教イスラム教における禁止は、一神教特有のものだと思われるかもしれない。(この書物で主として扱われるのはユダヤ教である。)
しかし、大乗仏教の伝統を有する日本人のために思い返しておいてよいことは、仏教の「縁起」や「空」の思想もまた、「偶像崇拝」からの脱出を教えるものとして読めるということだ。たとえば、手許にある般若心経に関する本は、臨済宗の抜隊得勝の言葉を引きながら、こんなふうに解説する。

「・・・抜隊は自己を自性としてとらえた。自性といっても、そこに自性という実体があるのではない。自性はただ妙用として働くのみである。しかもこの自性はわれわれ衆生にある。・・・
それでは自性を観るとは一体どういうことか。
一切ノ心中ノ盲情ハ、自性ヲ観ズレバ、即時ニミナ消滅ス
心の中の盲情は、自性を観ることによって、即時にみな消滅する。」(鎌田茂雄『般若心経講話』講談社学術文庫、1986年、43頁)

さらにこの本は、もう一人の禅師の言葉を引いて、次のように述べる。

「われわれの心は本来自由自在なのである。しかるに自分で自分を金縛りに縛りあげているために自由を失っているにすぎない。宇宙の生命と波長が合えば自由自在になり得る。自由自在になり得る自己自身が観音さんなんだと[曹洞宗の禅師]天桂は喝破する。」(前掲書、45頁)

このような宗教的伝統の教えと旧約聖書の教えとは、大きく異なっていると思われるかもしれない。
たとえば、旧約聖書出エジプト記20章には次のように語られている。

「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。」(『聖書』日本聖書協会、新共同訳、(旧)126頁)

厳格な保守的キリスト者ならば、この言葉にもとづいて、多様な仏のシンボリズムを偶像崇拝として忌避するだろう。
しかし、「盲情」を脱して「自由自在」の境地を目指す仏教徒は、偶像ではなく真の神を神とする(実際にはそれは実に困難で、真の神を神としようとする、という言い方が正しいのだと思うが)一神教徒と、そう遠く離れているわけではない、とも言えるのではないだろうか。

ところで、同じ一神教の中においても神概念に相違が生じれば、その裏返しの偶像崇拝の概念も多様となる。
ハルバータムとマルガリータの書物は、一神教におけるこの偶像崇拝禁止のメカニズムを分析して、「結論」において次のように述べる。

偶像崇拝をめぐるわれわれの議論は、何が排除されるかという共同体の思想を通じて、また「他者」に関する共同体の概念を通じて、共同体の自己規定を理解する試みであった。偶像崇拝の禁止は非異教徒と異教徒を隔てる厚い壁である。それは、異神を排除し、信仰の厚い人々の共同体を際立たせながら神の都市を構築する壁だと推測される。」(319頁)

本書は四つの偶像崇拝概念を論じるが、これも「結論」から要点を引いておこう。
一つめは、聖書的な偶像崇拝概念。旧約聖書流にそっていえば、他国の神やバール神を崇拝する行為=偶像崇拝は、「裏切り、反乱」とみなされる。
二つめは、形而上学的錯誤としての偶像崇拝概念。マイモニデスにみられるこの概念は、人間の特質を神に投影することを偶像崇拝とみなす。ここでは、イスラエルの神を拝んでいても、もしもその神に人間の特質が投影され、神ならざるものを神としているならば、偶像崇拝となる。この偶像崇拝禁止は、心の中に描いている神の像を打ち壊すという働きをもつものだ。
三つめは、一神教的伝統の内部における宗教的慣習に含まれる偶像崇拝概念。ここでは、真の神崇拝か偶像崇拝かという世界観そのものではなく、一神に対する慣習的な崇拝態度が問題となる。たとえば、聖書に天使の記述がされていて、それに対する崇拝が慣習的にある場合、そこでは一神教的な世界観が問題なのではなく、世界観を天使崇拝という形で行うのが偶像崇拝とされ、排除されるというものだ。
四つめは、偶像崇拝者と非偶像崇拝者の間の違いを、間違った信仰と正しい信仰の違いではなく、間違った啓示と正しい啓示の違いに求めるもの。崇拝の対象が神の神であったとして、さらに大切なことは啓示された正しい方法で崇拝することだとされる。

宗教を信じていないと思っている人にとっては、関係のない議論にみえるかもしれない。しかし、ここに提示されたものは、私たち自身の思考のためにも意味のある洞察だと思われる。

「・・・四つの異なる説明は、偶像崇拝の本質的な内容が何であるかを明瞭に表現するのは間違いである、ということを暗示している。・・・偶像崇拝の禁止によって引かれる境界線は、異なった領土を示し、それは同時に神や偶像崇拝についての異なった観念に依存する。」(325-326頁)

偶像崇拝とそれに対する批判に類した思考活動は、無神論者の宗教批判にも、政治理論家のイデオロギー批判にも、さまざまな領域でみられる。それらの活動の本質的な意味は、たとえば宗教と非宗教、あるいはイデオロギーと真正の世界観、などの間の境界線の設定という点にある。言い換えれば、それぞれの仕方で神や偶像の概念を建て直しているのだ。
たとえば哲学は、偶像破壊的企図の代表例である。

ウィトゲンシュタインは、そのノートの一つのなかで自分の哲学的企図を偶像破壊的な言葉で明瞭に述べた。「哲学ができることのすべては偶像を破壊するである。そして、それは新しい偶像をまったく作らないことを意味する─つまり、『偶像の不在』から発言することである」。」(329頁)

ニーチェ一神教と異教とを反転させ、一神教こそが生を抑圧する偶像であるとする。

一神教信者の神聖なる神とは違って、異教の神々は生を肯定する。本能的、英雄的として描かれる異教の神々は権力への意志を理想として、大切に胸に秘めておくべき何か、肯定すべき何かとして表現する。異教の神々は、人間の自己抑制というよりむしろ人間の解放の手段なのである。」(336-337頁)

ところで、偶像と真の神、盲情へのとらわれと自由自在の境地、これらを識別することは、決して容易なことではない。それは、共に想像力が関わるからである。
だから、想像力には、ある種の規律が要求される。しかし、その規律が想像力を根絶やしにするようなものだと、それは人間の生そのものを否定するものとなるだろう。
最近は、仏像ブームと言われるているが、仏像を通して人々が想像するなにものかが、現実の私たちの心に落ち着きを与えるのは、仏像を心に思い描くことで盲情という想像を抑止できるためではないか。このような想像力は、自由自在の境地に通じる想像力の例のように思われる。
しかし他方において、宗教的想像力が悪魔的なものとつながる可能性を、たとえばオウム真理教を経験した日本人は、やはり認めないわけにはいかない。宗教にはいつもうさんくささがつきまとう。
しかし、そのようなうさんくささは、まさに宗教内部において、多様な偶像崇拝概念を通して、指摘されてきたことでもあった。非宗教的な宗教批判と宗教的な偶像批判とは似ている、と言えないであろうか。それは、領域が異なるとされる世界における、同質の想像力の発露のような気がする。