病める神話・生ける神話(2)

武野俊哉『嘘を生きる人,妄想を生きる人 個人神話の創造と病』新曜社,2005年


上記の本の紹介を続けたい。
残されていたのは,個人神話の虚言の有する創造性。つまり,c「虚構性や虚偽性のなかに秘められている創造性」を生み出すc’「生きた神話」である。
ところで,武野氏の議論は,ユングの理論に基づいているため,人によっては「カルト的」,(とりわけキリスト教思想に馴染んでいる人には)「異教的」などと感じる人もいるかもしれない。ユングの鍵概念である「集合的無意識」や「元型」などの概念は,非科学的な空想だと思う人も多いだろう。
私個人も,この問題にたいしてどのように考えたらいいのか,立場をはっきりさせることはできない。しかし,ユング派のなかには,何らかの知恵がある,とは感じている。以下のことは,ひとまずは,「仮説」として受け止めていきたいと思っている。
さて,「生きた神話」が生み出される場として想定されるのは無意識であり,神話を生み出すこの無意識のはたらきは<神話産生機能>と呼ばれる。

「・・<神話産生機能>は無意識のなかで中心的な地位を占めており,それによって無意識はたえず休むことなく物語や神話をつむぎ出している。こうして生み出された物語や神話は無意識のままにとどまることもあれば,夢や啓示や芸術作品として顕現することもある。また無意識の神話産生機能は白昼夢や虚言症や妄想の母体でもあり,ときにはそれによってつむぎ出された物語や神話が行動化されると,夢遊病や夢幻症,憑依や霊媒のトランス状態などとなる。さらにこの神話産生機能が身体器官を言語として自己を表現すれば転換ヒステリーとなる。またそれが集団の場に布置されれば,中世の魔女狩りといったような集団ヒステリー現象を生み出すこともある。このように無意識の神話産生機能は,人間の創造性の源泉であり文化を生み出す基盤であると同時に,精神病理現象の生みの親でもある。」(166頁)

このように,無意識の神話産生機能は,創造性と病との双方にかかわる。
ユング派の精神療法では,個人神話の現れとしての夢の分析に大きな役割が与えられているが,それは,夢分析を通して,「みずからの人生を豊かに支える神話に出会い」,「みずからの人生に新たな意味と方向性を見出」すことができるからである(185頁)。
このように,夢分析を通して現れる個人神話は創造性にかかわるのだが,しかし,個人神話は必ずしも健康であるとは限らない。ある夢分析を紹介した後で,著者は次のように述べる。

夢分析のように無意識との対話のなかから生まれてくる《生きた個人神話》とは元来このようにすぐれて創造的なものであるが,すべての個人神話が生き生きとした健全なものであるとはかぎらない。統合失調者の〈妄想〉も,そのような生きた神話とはいえない不健全な神話のひとつである。」(186頁)

この統合失調者の〈妄想〉に代表されるような「不健全な神話」と,昨日紹介した「病んだ神話」(麻原や上祐の“虚言”)とは,異なるものなので,要注意だ。(タイトルが『嘘を生きる人,妄想を生きる人』と両者を区別していることにも注意。)
まず,「病める神話」の「妄想」は,病者なりの生を支えようとするひとつの個人神話なのであり,したがって,「妄想には妄想なりの意味があり,簡単にそれを取ってしまいさえすればよいというものではない」(194頁)。
もちろん,“虚言”もまた,生きるための個人神話と言えるかもしれない。しかし,「妄想」が「〈集合的無意識〉に結びついた「個人神話」なのであり,それなりの一応の普遍妥当性の芽はある」(215頁)のに対して,昨日紹介した「病んだ神話」の虚言は「完全に願望充足的〈自我〉が作りだしたもの」(215頁)でしかない,という違いがある。
「虚言」と「妄想」の関係は著者によって,まずは次のように整理されている。

「エロスの観点からすると,“虚言”とはエロスそのものの完全な欠如態といえよう。エロスがないので当然そこには,相手や場を操作し支配しようとする「パワー原理」が生まれてくる。それが虚言の主な動因となるものである。
それに対して〈妄想〉とは不健全で一面的なエロスから生まれてくるものである。」(224頁)

エロスとは,単に精神的なものでも,単に性的なものでもない,全体的な愛を意味するようだ。このエロスの全体性のゆえに,エロスは光と闇との双方を含むものとされる。〈妄想〉の「一面的なエロス」とは,エロスの闇の側面を現世に投影してそこから逃避し,光の側面をファンタジーの世界に求めることを意味する。このような〈妄想〉のために,

「もはや病者の世界には天上的なエロスの幻想しか存在しておらず,地上におけるエロスは死んでしまったも同然となる。したがって外的現実との生きたつながりを喪失してしまい,病者はただ内的現実である幻想の世界とだけつながって生きることになる。」(225頁)

次に,虚言と妄想は,「無意識」の観点から次のように区別される。

「“虚言”は主として自我が作り出したものといえる。たとえその素材を無意識から・・得ることはあっても,その無意識の素材を自我が,自分の好きなように,都合のよいように自分勝手に,願望充足的に歪曲・加工してしまうのである。したがって,自我と無意識とのあいだには関係性は成立しておらず,たとえあったとして相互性は完全に欠如している。」(225頁)

これに対して,妄想は次のように述べられる。

「〈妄想〉の場合は,無意識の内容を自我が,イメージおよびメタファーとしてではなく,まさに文字どおりにそのものとして具象的に受け止めすぎたことから生じてくるものである。すなわち,妄想の源は無意識にあるが,ただ自我がそれを健全に受けとめることに失敗したことから妄想は生まれたと考えるべきであり,虚言のように自我が妄想を作り出したとはいいがたい。」(225-226頁)

本日記でも何回か取り上げられたメタファーや隠喩の問題(10月14日,10月2日,9月30日,8月3日,8月2日)が,ここでも同じように論じられている。
それはさておき,昨日の大雑把な整理を,さらに整理しておこう。
本書の基本的な枠組みは,a「魂の救済システム」,b「虚構性ないし虚偽性がもつ破壊性」,c「虚構性や虚偽性のなかに秘められている創造性」からなり,これらは,それぞれ,a’「個人神話」,b’「病んだ神話」,c’「生きた神話」とも言い換えられる,と書いた。
今日の記述から,b「虚構性ないし虚偽性がもつ破壊性」は,とくに“虚言”にかかわることがわかった。他方,c「虚構性や虚偽性のなかに秘められている創造性」は〈妄想〉や〈夢〉にかかわる。
ところで,“虚言”は「病んだ神話」であるが,注意すべきは,それが自我の病であるということである。虚言の妄想は,自我が作り出したものであり,そこでは無意識との関係性が欠如している。したがって,虚言の妄想は,(本来,無意識との関係を有する)創造的な個人神話たりえない。
他方,〈妄想〉は「不健全な神話」であるが,無意識との関係を有しているという点で,個人神話に属しており,その意味で創造性を有するだけでなく,精神療法によって「生きた神話」への回復の可能性をもっている。
また,〈夢〉は個人神話への通路であり,その分析を通じて個人神話を自覚することによって,自己の生を創造的に生き直すことが可能となる。これが《生きた神話》のはたらきである。

「《生きた神話》というものは,生きたエロスの介在によってもたらされた,自我と無意識との相互的で創造的な(ユングによれば弁証法的な)関係性のなかから織りなされてくるものである。生きた神話とは,自我と無意識の生きた関係性を象徴するものなのである。」(226頁)

この《生きた神話》の有する関係性は,豊かな矛盾として現れる。したがって,《生きた神話》を生きるとは矛盾を生きることでもある。
著者は,治療者として,この矛盾を生きることの課題を次のように述べる。

「治療者として神話を生きるためには,たしかに矛盾を生きなければならない。そして矛盾を生き抜くとき,ある種の虚偽性をも生きなければならなくなる。したがって,治療者としてある種の虚偽性を生きざるをえないのは事実である。しかしそのことをキチンと自覚して,「はたしてこの虚偽性が治療に通じるものなのか? それともたんなる泥棒のはじまり[「嘘は泥棒のはじまり」から来ている表現]なのか?」と,たえず自分自身に問うていかなければならない。」(232頁)

以上の言葉は,昨日もふれたように,決して治療者にのみ当てはまる言葉ではない,と思う。多くの人が,親として,先輩として,上司として,治療者的な立場にたって行動する役目を負うことになるからだ。また,市民としては,政治家の虚言や妄想に対して対処する義務があるだろう。
そのような虚言や妄想と付き合っていくためには,矛盾する現実の全体を受け入れる愛が大切だ,と感じた。ユング派はそこで,矛盾する全体を統合的に受けいれるための個人神話,それを生み出す無意識と自我の相互性という議論を展開するのだろうが,それを受け入れるかどうかは,冒頭に述べたように,個々人が判断することだろう。
なお,本書のおもしろさは,引用したような一般的な命題の記述だけでなく,具体的な事例にこそあるように思う。読んでみる価値ある一冊だ。