病める神話・生ける神話(1)

武野俊哉『嘘を生きる人,妄想を生きる人 個人神話の創造と病』新曜社,2005年


著者は,1953年生まれの精神医療の臨床家である。東京医科歯科大学医学部卒業後,病院の院長を歴任した後,スイスのユング研究所に留学して,ユング派分析家資格を取得し,現在は精神療法・精神分析専門のクリニックを開業している。
本書は,いろんな紹介の仕方ができると思うが,著者による説明をそのまま引用すると,次のようになる。

「本書は,宗教や精神療法といったいわば「魂の救済システム」に深く結びついた虚構性ないし虚偽性がもつ破壊性の問題を,おもにオウム真理教およびそれが体現している“空想虚言症”を導きの糸としながら論じようとするものである。とりわけその虚構性ないし虚偽性が「パワー原理」と結びついたときにいかに危険なものとなるかを,種々の素材を用いながら,精神療法にひそむ<影>の問題として,具体的に提示してゆくつもりである。しかしそれと同時に,虚構性や虚偽性のなかに秘められている創造性の芽を見落とすわけにはいかない。この想像性の芽が十全に花開くための「土壌」とはなにかを考えてゆくことも本書の目的である。すなわち魂(およびその救済システム)に内在する虚構性ないし虚偽性は,創造的で生きたものともなれば,破壊的で病んだものともなりうるのである。その両義性について,個人神話の視点をとおして考察を深めてゆきたい。」(i-ii頁)

いくつか分かり難いことばが出てきたかもしれない。
a「魂の救済システム」,b「虚構性ないし虚偽性がもつ破壊性」,c「虚構性や虚偽性のなかに秘められている創造性」,これらが,大きな三つの要素である。おおざっぱに言えば,これらはそれぞれ,a’「個人神話」,b’「病んだ神話」,c’「生きた神話」と言い換えられる。
まず,a「魂の救済システム」,あるいはa’「個人神話」とは何か。この考え方には,著者の理論的基盤となるユングの理論がある。

ユング派の分析とは,無意識の「神話を生み出す力」をたよりに,分析を受けている人の生を豊かに支えてくれるその人なりの意味深い固有の物語,すなわち被分析者の“個人の神話”を新たにつむぎ出してゆく作業である。ここでいう神話とは,われわれの生に根源的な存在の基盤を与え,この世とあの世,また過去と現在を含んだ意味ある全体性のなかにわれわれの生をしっかりと根づかせてくれるものである。つまり,そういった,われわれの生を本源的なところで支え,規定し,またそれに形を与えてくれるようなわれわれ個人の神話を見出し,そしてそれを主体的に生きてゆくことこそがわれわれの「生の課題」である,とユングは考えたのである。」(3-4頁)

この「個人の神話」は病んでいることもある。これが,b’「病んだ神話」であり,その神話の有する特質がb「虚構性ないし虚偽性がもつ破壊性」である。この神話の病は,虚言症や妄想として現れ,これらは時に,パワー原理と結びつき,暴力へと発展する。その典型例が,オウム真理教であり,その教祖・麻原であった。

「・・麻原の教義は種々雑多な既存の知識からの借用物であり,自分の都合のいいように既成宗教のさまざまな経典をつまみ食いした寄木細工にすぎないが,まさにここに“空想虚言”の本質の一端が現れている。
都合のよいところだけつまみ食いするというのは,自我だけが関与しているからこそ可能なのであり,もしそこに無意識も関与してくるならば,当然そこには「自我には都合のよくない現実」も生じてくるはずである。すなわち,意識と無意識とが分かちがたく織りなしあう複雑な網の目のなかから生まれてくる「生きた現実」というものは,本来(自我にとっては矛盾をはらんだものなのである。そして生きた神話ないし宗教といったものも,矛盾を内包した「生きた」現実のなかからのみ生まれてくるものなのである。」(29頁)

本来,生きた神話・生きた宗教は,自我と無意識の織りなす「生きた現実」から生まれる。しかし麻原は,自我によって真理を弄ぶ。そこに麻原の空想虚言症者としての本質があった,と著者はいう。
同様のことは,アーレフの指導者となっている上祐に対しても指摘される。著者は,上祐を紹介する文章に,1995年から2000年までが見事に欠落している事実を取り上げて,次のように述べる。

「上祐の紹介履歴では,一九九五年から二〇〇〇年までがものの見事に欠落しており,逮捕され,三年の刑期を終えて出てきた経緯についてはまったく触れられていない。オウム事件のことを知らない人が見れば,上祐のことをなんと素晴らしい人物だと思うことであろう。その一方で,アンダーグラウンド・サマディ,シャクティーパット,ロシアでの布教などオウム時代の都合のよい経験だけは抜け目なく(しかもオウムの名は伏せて)とりあげているのである。このように,丸ごとの現実と向き合うことはせず自分の都合のよいところだけを拾い上げてゆく姿は,まさに”空想虚言者”の特徴といえよう。」(50-51頁)

オウムやアーレフだけではない。歴史的現実と向き合うことが困難なのは,戦争に荷担した者の戦後のあゆみなどからもわかる。だから,特定の宗教者だけを責めたいとは思わない。(また,著者もそのような意図はないだろう。)確認したいことは,神話が病めるものか,あるいは生きたものかを決する試金石は,歴史的現実との関わりにあるということである。
このように,本書の価値は,オウム批判を手がかりとしながら,それをこえて,今を生きる我々のあり方を問うているところにある。
例えば,精神療法家に対する戒めとも言える数々のコメント。精神療法家もオウムの麻原と同様,本質的には神話の語り手の立場に置かれており,救いを求める人々に明確な答えを与えたいという願望に動かされる危険性をもっている,と著者は言う。これは,精神療法家として,自らの生業に対する批判的自己認識であるが,このような危うさは,政治家,経営者,あるいは教師など,人を指導する立場にある人にも広く存在するのではないか。
さらに著者は,空想虚言症に親和的な心的特性として「想像力の欠如や,図式的で単純明快なわかいやすさだけを追求するロゴス偏重の心性」(42頁)を指摘しているが,ここからは,まさに現代社会批判としての重みさえ感じる。
社会や政治の問題とされるものは,制度や財政などのハードそのものというよりも,それを運用するための心的能力の欠如,つまり,想像力の欠如や単純なロゴス偏重にこそあるように思う。そうした精神が蔓延する現代社会には,なんと多くの空想虚言症があることだろう。例えば,各省庁から出される施策の美辞麗句とそれを実施するための方策との乖離をみると,現代国家は空想虚言のために莫大な予算を消化するマシーンになっているように思われる。
もちろん,それらすべてが空想虚言だ,というつもりはない。それぞれは,各々の文脈に置けば,それなりに実質的な意味のあることがわかる。しかし,全体としてみた場合,また現場との乖離をみた場合,虚言のように思えるものが数多くあると感じる人も多いのではないだろうか。
しかも問題は,そうした空想虚言をもとに予算を消化することによってしか,ひとまず現代社会は回らないようになっているということである。このような意味で現代は「病める神話」を生きている,と言えるように思う。
しかし,さらに問題を複雑にしているのは,このような神話の虚言が創造性ともつながっていることである。神話には,c「虚構性や虚偽性のなかに秘められている創造性」を生み出すc’「生きた神話」がある。
これについては,明日,とりあげたいと思う。