ユダとは誰か

荒井献『ユダとは誰か 原始キリスト教と『ユダの福音書』の中のユダ』岩波書店,2007年


一昨日,太宰治の『駈込み訴え』を取り上げて「「裏切り者」ユダの独白形式をとった『駈込み訴え』(ちくま文庫太宰治全集では3巻に所収)は,最近のユダ研究によれば,歴史的な設定は問題があるようだ」と,つい書いてしまったが,文学作品を取り上げて,それに歴史的な設定に問題があるというのは,明らかにアンフェアな言い過ぎだった。そんなことになったら,歴史に素材を求める多くの小説に問題があることになる。
その言い訳もかねて,上掲の本を取り上げたい。
本書は,新約聖書学の碩学による,近年のユダ研究を踏まえた,新しいユダ像の提示の試みである。
「あとがき」にもあるように,2006年に流行した『ダヴィンチ・コード』に端を発して,ユダ・ブームが起こった。『ユダの福音書』(異端の文献)のコプト語本文と英訳がインターネットに公表され,日本の大手新聞の文化面にも,「ユダがイエスを官憲に引き渡したのはイエスを裏切ったのではなく,実はイエスの指示に従ったのだという,この福音書における「衝撃的記述」を紹介」(235頁)する記事が載った。
こんなことが頭の片隅にあったものだから,ついつい一昨日のような記述となったのだが,しかし,改めて本書を読むと,今さらながらにユダ像には未解明な部分が多く,上の新聞記事などもそう単純に受け入れることができないということがわかる。
著者は,新約聖書の四つの福音書におけるユダに関する記述を表にとりまとめたうえで,各福音書におけるユダ像の特質を記述する。これは,四つの福音書そのものの特徴や考え方をも示すものとなっていて興味深いのだが,ここではヨハネによる福音書におけるユダ像のまとめだけを引用しよう。

「要するに,ヨハネによればユダは「盗人」で,イエス集団の「金庫番」でありながら,その中身を「くすねていた」,金銭欲の権化なのである。この文言は明らかにヨハネの編集句であり,ここから私たちはヨハネのユダ像を読み取って差し支えないであろう。」(98頁)

太宰の『駈込み訴え』が典型的にこれであるが,それはさておき,章の末尾では次のようにまとめられている。

「いずれにしても,以上確認したように,ユダは福音書の中で,とりわけヨハネ福音書で最も強く「悪魔」化されていると同時に,このユダによる官憲へのイエスの「引き渡し」は,神の定めに従う,イエスの意思の結果であることもまた同時に最も強調されている。」(109頁)

福音書の中で,成立が最も遅かったと見られる「ヨハネ伝」(荒井氏は1世紀末に成立としたと考えている)において,ユダは最も「悪魔」化されている。
さらに,2-3世紀にかけて書かれた正統的教会の文書(「使徒教父文書」「外典行伝」)においても「ユダは正統的教会から批判の対象となった,金銭欲の権化,教会を裏切る者,官憲への「密告者」の元型とされ,神によるおぞましい刑罰の対象として描かれている」(124頁)という。
このような正統的教会のユダ解釈と異なるのが,『ユダの福音書』である。
ユダの福音書』は初期のキリスト教が存亡をかけて闘った異端・グノーシス派の文書である。そこではユダは次のように描かれている。

「成立しつつある二−三世紀の正統的教会において,金銭欲による教会の「裏切り者」「密告者」の元型にまで貶められていたユダ像は,『ユダの福音書』において一八〇度逆転され,イエスの「福音」の伝達者として高く評価されている。
・・・・
グノーシス派,とりわけセツ派にとって,イエスは本来的自己の元型で,彼は人間の身体を含む天地万物を造った「創造神」を超える,不可視の至高神によって遣わされ,その本質は至高神の女性的属性の人格的存在(アイオーン)である「バルベーロー」に由来する。このことを知っている「ユダ」は,イエスの「十二人」の弟子たちを否定的に超える「十三番目の神霊(ダイモーン)」・・である。」(160-161頁)

グノーシス派において,「イエス」は人間の元型とされ,「不死のアイオーン」つまり至高神から流出する神的存在とされるが,このような神を「知る」ことが,グノーシス派における「救い」なのである。それは,選ばれた知者(グノーシス者)のみに可能であるとされるのだが,『ユダの福音書』においては,まさにユダが「イエス」をそのような存在であると知る知者とされているのである。
このような文書に対する,著者の評価は次の通りである。

「もし,『ユダの福音書』によるユダの「復権」に歴史的意味があるとすれば,正統的教会が自らの罪を負わせ,「スケープゴート」として教会から追放しようとしたユダを,イエスの「愛弟子」として取り戻したという一点にあるのではなかろうか。」(162頁)

ここに示唆されているように,著者は,ユダをスケープゴートとした正統教会のユダ像を問題視している。著者のユダ像の中核にあるのは次のような仮説である。

「ところでマルコ福音書では,私見によればユダは,ガリラヤにおける復活のイエスとの再会を予告されている弟子たち・・から排除されていない・・。その限りにおいて,イエスを裏切ったユダは,師を「見捨てて逃げて行った」他の弟子たち・・と共に,究極的にはイエスによって赦されている,ということになろう。・・」(169-170頁)

まとめると次のようになる。

ユダヤエスの直弟子の一人であったが,何らかの理由で師をユダヤの指導者たちに「引き渡した」。ユダの裏切りを事前に知ったイエスは,「呪う」ほどに彼を憎悪した。しかしイエスは,そのような「敵」をも受容して十字架死を遂げた。復活のイエスが「十二人に現れた」という伝承から推定して,ユダがイエスの死後,弟子たちと共に顕現体験に与った可能性はあろう。彼の最後については不明である。
エスの死刑確定後にユダが不自然死を遂げたという伝承や,彼の死を裏切りの「罪」に対する神の裁きとみなす見解が成立したのは,成立しつつある正統的教会が,ユダの「罪」を赦さず,自らの「罪」をも彼に負わせて,彼を教会から追放しようとした結果ではないか。」(170-171頁)

もちろん,ユダを「悪魔」化した初期教会(とさらにそこから育った正統教会)を単純に非難すれば問題が片づくというわけではない。
何からの秩序が形成されていくときに,このような罪を負わされる存在が造られるというのは,人間の歴史にひろく見られる現象である。問題の焦点は,まさにそこに絞られるべきではないだろうか。ユダを「復権」することにキリスト教界を超えた意味が認められるとすれば,このような視点においてだと思う。
キリスト教界を超えた意義を求めるからといっても,それはヒューマニズムに解消されるものではない。むしろそのような視点は,イエスの「愛敵」の教えによって切り拓かれた地平において可能になるものだと,個人的には思う。だからこそ著者は,歴史のなかのユダ観を問題視することができたのではないか。
なお,太宰治が『駈込み訴え』で最も多く用いている資料は,ユダを最も「悪魔」化するヨハネ伝であった。このユダに自分を重ね合わせて,文学的創造を行った太宰の知性は,典型的に近代的である。荒井氏も,「罪深きユダと向き合うことによって,己の罪深さを知る。すなわちユダの中に自己を見るということは,近代以降のこと」(233頁)と述べている。