政治のことば(1)

成沢光『政治のことば 意味の歴史をめぐって』平凡社1984


新年度がはじまりました。
今までの日記を振り返ってみると,毎回えらそうなタイトルをつけていたと,少し気恥ずかしい思いがするので,この4月からは紹介する書物や論文の題名(あるいはその中の章や節の題名)を日記のタイトルに掲げることにしたいと思います。
*本ブログのコンセプトについては,カテゴリーのme and my blogの記事をご参照ください。
*学内向けの案内となりますが,今期は特に「思想史」の受講者を念頭において本を紹介していきたいと思っています。授業に直接関係する書物だけではなく,授業の背景にある問題意識に関わる書物も紹介していくつもりです。紹介する図書は基本的に私の研究室にあるので,読んでみたい本が図書館で見あたらない場合は,直接おたずねください。


さて,今回は成沢光(なるさわ・あきら)氏の『政治のことば』のなかの「古代政治の語彙」を紹介する。
[成沢光氏は,1939年生まれ。東京大学大学院を修了し,本書出版時は法政大学法学部の教員。現在は,国際基督教大学客員教授を務めている。]
研究の対象として取り上げられている語彙は,オサム,カトル,ウナガス,マツギゴトとタテマツリモノ,シル,シラス,シロシメス,イキホヒである。
本日記ではだいぶ前に,万葉集の研究で有名な中西進氏の『日本語の力』(集英社,2006年)を紹介したことがある(2008年8月21日)。これは,ベンヤミンというドイツの批評家の言語思想に関連して取り上げたものだ(2008年8月20日)。
ベンヤミンは,人間の精神的本質を,たとえば「光あれ」とよぶ神の言葉の働き,すなわち創造の媒質としての言語にみる。創造の媒質としての言語は,名としての言語であり(「光」という言葉は,光というものの名である),それゆえに人間は言葉を通して世界を知ることができるのである。これが人間の精神的活動の本質をなすものだ,というのである。
しかしベンヤミンは,人間の言葉は堕罪してしまったとも考える。名としての言語は,ものとの十全なる関係を失い,抽象的記号としての言語に堕した,という。
ところで,中西氏は,こうしたベンヤミンの思想とは(おそらく)まったく無関係に,古代日本語の世界の研究を通じて,言葉の継続は「心」によるとみる(2008年8月21日を参照)。そして,「心の喪失が,ことばを「流行」のものとした」(中西進『日本語の力』59頁)と述べる。
これは,ベンヤミンの「言語の堕落」と通じる議論のようにも思われる。つまり,心が失われると=堕罪すると,言葉はものとの関係を失って,流行と化す。(この点の指摘を欠いている点で,2008年8月21日の日記はうまくない記事だったと思う。)
さて,以上のことをふまえると,政治に関わる語彙の歴史をみることは,政治という言葉の対象となるところの人間の活動とは何かを考えるうえで,重要な示唆を与えるとはいえないだろうか。(ことは政治の世界にとどまらず,およそ人間の活動によって成り立つ世界を理解するには,数学的自然科学的な分析とは異なる,言葉の分析が決定的な意味をもつものである。)
以上のような問題関心のもとに,今日は,オサムをみておこう。
著者は,オサムの多様な用例をふまえて,その意味をつぎのように解釈する。

「オサムとは,まず第一に,あるべき静態的秩序の存在を前提にして,ある対象をその中にあるべき位置・状態に落着かせる意である。」(10頁)

ところで,オサムには次のような特徴があったという。

「人民と統治者あるいは国家との関係において,人民は税をオサメ,国家間においては属国が貢職や図籍を帝国にオサメた。すなわち,支配される側の服属行為として何らかのモノをオサムという表現がある。ところが逆に,支配する側が,それらのモノを受領(あるいはより強くいえば没収)することもまたオサムル行為である。」(14頁)

いまでも日本人は,税金をオサメル,という。そして,統治者は,国家をオサメル。人民と統治者の行為の中味は異なっているが,ともに秩序を成り立たせるものとして「オサム」行為なのである。
著者はさらに,同じような構造を示す言葉として,「タマフ」(与える,受ける,の両義)「イタハル」「イタハリ」(上の者が下の者を世話する,下の者が上の者に仕える,の両義)を挙げる。
これらをふまえて,著者は次のように論じる。

「このような語の用法に即して見る限り,日本における支配−従属関係において,モノ,コトバ,行為が授受されるとき,支配者の行為と被支配者の行為とに,ある共通性が認められていたことは明らかであろう。・・・どちらから見てもオサムルことによってオサメられ,ツカフことによってツカハレ(ツカヘラレ),イタハリ,ネギラフことによってイタハリ,ネギラヒを受けることとなる。」(16頁)

以上の支配従属関係における相互性を,著者は「オサム構造」と表現し,その起源を神話に求める。

「こうしたオサム構造は,日本における支配関係の一つの原初的特徴を示していると思われる。その起源についていえば,これは,神々をしかるべきところにオサメ,イツキマツルことによって「[国家(アメノシタ)を]安らかに平らぐ」(記,崇神天皇),すなわちオサムルことが可能になるという観念との連関を考えねばならないであろう。ヒトがカミをヤシナフという例に見られるように,神人関係の特質が支配関係の特質を規定していることが,語の意味と用法に表われていることに注意すべきである。」(17頁)

つまり,オサムという言葉の「心」(上記,中西進氏の言葉を参照)は神話的観念に基盤をおいている,ということである。
ここ数回取り扱った,神話と政治との関係(「イデオロギーと神話」3月19日,21日,「ナチ神話」3月23日と)は,古代日本のオサム構造にもはっきりと痕跡を残している。その言葉が継続しているということは,その心の継続をも意味しているのかもしれない。