超越を生きる

木村敏「差異としての超越」,横山博編『心理療法と超越性 神話的時間と宗教性をめぐって』≪心の危機と臨床の知 10≫,甲南大学人間科学研究所叢書,2008年,所収


シリーズ≪心の危機と臨床の知≫は,文部科学省の学術フロンティア推進事業に採択された共同研究「現代人のメンタリティに関する総合研究─心の危機の臨床心理学的・現代思想的研究」(1998-2002)からスタートした研究叢書である。この研究プロジェクトはその後,「現代人の心の危機の総合的研究─近代化の歪みの見極めと,未来を拓く実践に向けて」という題目のフロンティア推進事業としてさらに展開された。そして2007年,共同研究の最後のシンポジウムとして「心理療法と超越性─神話的時間と宗教性をめぐって」が開催された。本書は,このシンポジウムの発表内容を推敲・深化したものである。(以上,「まえがき」より。)
巻頭論文である木村敏氏の「差異としての超越」は,「ハイデガーの基礎的存在論とヴィクトーア・フォン・ヴァイツゼカーの医学的人間学を補助線」(15頁)とする,共同研究の中心テーマである「超越」の考察である。
超越は一般的に内在と対に語られる。その際,まずは超越と内在があって,それから超越と内在の境界がある,と考えられるが,そういう考え方を木村はとらない。むしろ,

「[超越と内在の]境界,この「あいだ」こそが,それをはさむ両側とされる二つの領域[超越と内在]を,それぞれの固有性をもった現実 actuality として生み出しているとは言えないだろうか。」(16頁)

人間は境界的存在である。このような人間存在の根本体制において「超越」が経験されていく。それを木村は次のように描く。

「実在によって構成された日常の世界に住み,実在的な対象を知覚して,これに向かって行動しながら生きているわれわれの経験にとって,このような非実在的な存在[自己と自己の関係としてある,非実在的で対象化不可能な純粋関係としての自己]がたちまち経験外在的で超越的な意味をおびることになるのは,容易に理解できる。それ自体としては経験できないのに,つねに「自己と世界とのあいだ」で自己の行動を統御し支配する「なにか」としてはたらき,したがってその存在を疑うことができないもの,それを人間は「超越者」として意識する。そしてこの超越者に「神」的な性格を与え,「宗教」と名づけられるような「彼岸」の世界を構築することになる。」(20頁)

「境界」としてある人間の生が投影されて,超越(的存在としての神)や,それと向かい合う内在(的自己)が現れる。根源的な事実は,超越そのものや内在そのものではなく,かくなるものとして生きている「生の事実」なのである。
ところで木村は,生を「ビオス」と「ゾーエー」という観点から理解する。「ビオスとは個人の生命あるいは生活,ゾーエーとは生命一般のこと」(22頁)であり,ゾーエー的生命が個別化されたものがビオス的生である。超越と内在で割り振れば,ビオスが内在に,ゾーエーが超越にあたる。
人間は,この二つの生命の境界を生きている。我が子をみて,生命の連続性を感じるとき,そこには「ゾーエー」的生命が見透されている。しかし,このような生命観は,個的「ビオス」の有限性の認識と相即的である。

「ゾーエーは,われわれがそこから生まれてきて,そこへ向かって死んでゆく場所,個人としての一人ひとりのビオス的な生死を絶対的に超越した生の源泉,客観的に対象化しえない生命の根拠である。しかし対象的に認識不可能なこの超越的な場所は,ある仕方でわれわれの経験と直接に境を接し,非実体的,非実在的な生成の働きとしてわれわれの経験に入り込んでいる。つまりわれわれの経験は,ある種の非対象的・直観的な仕方で,この超越的なゾーエーの場所に直接に触れている。そして,この個別的ビオス以前,いわば「父母未生已然」の超越的な場所との直接無媒介の接触を,つまりビオスとゾーエーの境界を,われわれはそのつど「自己」として実感し,「生きて」いる。」(23頁)

たしかに,「生きている実感」なるものは,対象化可能な生だけから得られるものではない。対象化可能な生を生きる自己は,食し,眠り,消費し,働く。そこでは,モノが動いている。しかし,このモノが動いている生を生きているという実感は,モノをみることだけからは生じない。
「人はパンのみにて生くるにあらず」という言葉は,このような観点からも解釈できそうだが,それはさておき,著者は,以上のような根本的洞察をハイデガーとヴァイツゼカーの哲学を用いて捉え直す。やや難しいかもしれないが,そのまま引用しよう。

「自ら一個の存在者でありながら,存在者と,存在つまり「あるということ」との存在論的差異を理解しているということが,つまりハイデガーのいうところの「現存在の超越」が,現存在を自己自身たらしめる「自己性」を構成するのだという。この認識は決定的に重要である。
いまハイデガー存在論的差異を生命論的に表現しなおすとするならば,人間という生きものは,それぞれ個別的な「自己」として自己自身のビオスを生きながら,そのビオスを絶えず生み出し続けている源泉であるゾーエーという個別以前の超越的な自然をわが身に引き受けている,あるいはビオスとゾーエーという生命の二相間の差異を生きているということになるだろう。」(27頁)

木村はこの生命論的差異の思想を,ヴァイツゼカーの医学的人間学とつなげる。ヴァイツゼカーによると,生命の主体性とは「生きものと環境との「あいだ」ないし境界」(29頁)で両者の出会いを成り立たせている原理だという。
個々の生きものはビオスを生きる。このビオスが生きるためには,生命それ自身としてのゾーエーとの関係が確保されなければならない。生物論的差異を生きるところに,生命の主体性,あるいは生を生きる「自己」が成り立つ。
さて,以上のことを踏まえて,「超越」とはあらためてどのようなものとして捉えられるのか。

「自己とは自分自身と世界や他者との「あいだ」ないし境界を自らの存在として生きているような,言い換えれば「内在即超越」,「超越即内在」の「即」それ自体であるような,そんな超越論的なはたらきのことである・・・これは単なる哲学的思索にとどまらず,精神病理学的ないし心理学的な臨床にとってもこの上なく重要な作業である。」(31頁)

「超越」を何かしら実体として理解するのではなく,境界を生きる自己の働きにおいて見いだすということが,人間を理解するために,また自分の生を生きるためにも,重要なものである,という。
このことは,この日記でここ数回取り上げてきた「神話」にも通じる話である。神話的超越が実体化されるとき,例えばそれは人種主義的イデオロギーとなるだろう。それから逃れるためには,超越を実体化するのではなく,それが生み出されるプロセスとしての生に眼を向けなければならない。
木村敏氏は,1931年生まれ,京都大学医学部卒業,京都大学名誉教授。精神病理学界を代表する碩学であり,多数の著作がある。その著作の森に入っていくのに,このような小さな論文を導入とするのも,一つのアプローチの仕方だと思う。