ナチ神話

フィリップ・ラクー=ラバルトジャン=リュック・ナンシー『ナチ神話』(守中高明訳)松籟社,2002年


前回紹介したケネス・バークの神話論(3月21日)は,神話に関する議論として珍しい種類のものではないかと思う。学問の営みは,神話がいかに危険なものかを明らかにするところにその意味があるともいえるから。
実際,神話批判は,決して失ってはならない知の営みである。(ケネス・バークの議論も神話批判を含んでいる。)そこで今日は,その例として,手近なところにあった『ナチ神話』を紹介したい。
本書の訳者解説にもあるように,著者らは,デリダ以後のフランスの哲学を牽引する代表的な人物であり,すでに数多くの著作が翻訳されている。(残念なことにラクー=ラバルトは2007年に亡くなった。)
原著は1991年に出版されているが,序言によると,このテキストの最初のヴァージョンは11年前,つまり1980年に書かれた。
二人の神話批判は,脱構築的な手法を用いるもので,哲学になじみのない人には難しいかもしれない。むしろ本書をして彼らの哲学の入門とするような気持ちで読むとよいのかもしれない。
著者らは,歴史修正主義原理主義の跋扈を前にして,「神話」の復活に注意を促す。

「…これらの言説は,「神話」という言葉をつねに用いるとはかぎらず,神話的機能を考慮する明示的ではっきりした論法をつねに展開するともかぎらない。だが,「時代の空気」の中に,何か共同体の存在ないし運命の表象のようなもの,形象化,それどころか血肉化のようなものへの密かな要求あるいは期待が存在しているのである(この共同体という名そのものが,それだけで,すでにそのような欲望を目覚めさせるように思われる)。」(14頁)

このような共同体を欲望する神話的言説の,その根本的性格を顕わにしたものが,ナチズムである。著者らは本書において,その「論理」を究明しようとする。そのキーワードは「主体」である。

「…厳密に示さねばなるまいのは,いかにして全体国家なるものが実際には国家-主体として理解されるべきものであるかということであり(この主体は,事が国民(ネーション)に関わっていようと,人類,階級,人種,あるいは党に関わっていようと,絶対的主体である,あるいはそうであろうとする),したがって,最終審級において,イデオロギーが結局のところその真の保証人を見出すのは近代哲学の中,ないし完成された<主体>の形而上学の中にであるということ……である。」(32-33頁)
「最後に厳密に示さねばなるまいのは,このようにして完成される観念のあるいは主体の論理は,まず始めに,ヘーゲルを通してそのことを見て取ることができるように,恐怖政治の論理…であり,ついで,その最終的展開においてファシズムとなるということである。主というイデオロギー……それこそがファシズムなのであり,これはむろん今日にも妥当する定義である。」(33-34頁)

ファシズムへと展開する主体は,神話的同一化を通して実現された。
神話はどうして同一化の作用を有するのか。

「…神話とは,強い意味におけるフィクション,つまり能動的な意味における加工,あるいはプラトンの言うように,「形成術」である──したがって,それはあるフィクション構成作用であり,その役割は,諸モデルないし類型…を提示することにあるのである。」(44頁)

神話は,この作用を果たすために,芸術と一体となり,その象徴的イメージを通して,同一化を成し遂げる。ここに政治と芸術の融合が生じる。「…ナチ神話とは……一個の芸術作品における,芸術作品による,そして芸術作品としての,ドイツ民族の構築であり形成であり産出」(60頁)なのだ,という。その具体相を,著者らはローゼンベルクの『20世紀の神話』とヒットラーの『わが闘争』から描き出す。
重要と思われるのは,今からみれば荒唐無稽のように見える人種論が,危機の中で,きわめてモダンな生のあり方として語られたということである。

「神話への「神秘的な」関係は,生きられた経験(Erlebnis)の領界に属している。「神話的経験」(ローゼンベルク…)というのがあるのであり,そのことが意味しているのは,神話は生きられたかぎりにおいてしか本物ではないということだ。同様にして,神話はあるある実効性をそなえた類型を形成するべきであり,信仰の行ないは無媒介的にこの類型の体験であるべきなのである。(そこから,さまざまな制服や身ぶり,パレード,儀式による熱狂といった神話的領界に属する諸象徴が……ただ単に技術ではなく即自的な目的となるという事態が生まれてくる。つまり,それらの象徴は類型の全体的Erlebnisという合目的性を具現化しているのだ。象徴体系はただ単に目印なのではない。そうではなく,それは夢の実現なのである。)」(72頁)

神話は,世界を象徴(シンボル)において再創造する(シンボルについては3月3,8日を参照)。
モダンという時代は,テクノロジーの進歩を通して,神話的な象徴やイメージがかつての空間的限定性を破って,かつてない神話的同一性を有する主体を生み出した時代なのである。
このような時代に,神話批判は不可欠の知的営為であるに違いない。しかし,3月19,21日に紹介したバークの論点も私には重要に思われる。
問題の焦点は,私たちの行為への動機を,非共同体的なものとして確立する道はあるのかどうか。著者らの哲学は,それを探究する営みとして読むことができるように思われる。