イデオロギーと神話 2

ガスフィールド編,ケネス・バーグ『象徴と社会』森常治訳,法政大学出版局,1994年


前回(3月19日)は,本書に収められたケネス・バークの1947年の論文「イデオロギーと神話」を引用しながら,イデオロギー闘争を克服しようとする知識社会学は,人々から行動への刺激を奪い取ってしまうというバークの解釈を紹介し,その隘路を突破するために,バークは「神話」を呼び出すと予告した。
今日は,上の書物に収められた「修辞の述語」(もともとは『動機の修辞学』A Rhetoric of Motives, 1969 所収の「秩序 Order」)からバークの考えをたどってみたい。
バークの神話論は秩序論のなかで展開されている。
秩序とは人間の経験を整序する語彙によって形成されるものであり,この語彙は三つのレベルに分けられる。実証的語彙,弁証法的語彙,究極的語彙,である。
実証的語彙とは,「時間空間のなかに存在する可視的で有形なものを名づけるときにいちばんその真価を発揮する」(319頁)ものである。
弁証法的語彙とは,ベンサムが「虚構実体」と呼んだものを成り立たせるものである。それは,事物ではなく,理念や観念に言及し,人間の行動や振る舞いに関わる。たとえば,議会における論争を成り立たせるのが,弁証法的語彙である。
(人間は,事物そのものに対しては,知覚・認識するかしないかである(実証的語彙)。事物や虚構の理念や観念に対して,行動や振る舞いがなされる(弁証法的語彙)。実際には,この両者は区別しがたくつながっているが(3月3日を参照)。)
では,究極的語彙,またそれによって形成される秩序とはどのようなものか。

「議会内闘争のたんに「弁証法的な」対決と,それの「究極的な」取り扱いとの間の違いは次のようになるまいか。「弁証法的な」次元秩序はあい争う声を喧騒の巷のなかに放置する。(争いはたださらに良いものがないという理由で,「取引き」によって解決されるだけだ。)だが「究極的な」次元秩序は,それらあい争う声自体を,ヒエラルキー・階梯秩序,順序系列,価値系列のなかに配列する。そこでは,ある固定され,論理的に正当化された手続きによって一つの声から別の声へと発展的な前進が図られるのである。」(325頁)

弁証法的な語彙が「議会的葛藤のレヴェルに低迷する」(340頁)のに対して,究極的な語彙はフォルム(形式)の上で優位を占める。言い換えれば,究極的な語彙は「修辞的な優位」(340頁)をもっている。その優位性を示す代表例がマルキシズムであった。

「筋書き構想,プロットは意識されないとはいえ究極の次元にある。読者はその展開のそれぞれの局面……を通過経験するうちに,つぎの段階に対して心理的な準備が整うわけである。……マルキシズムの歴史的弁証法がもつ形式上の魅力は,物語の場合のように,時間配列が同時に「原理面での」配列になっていることから来ている。」(340-341頁)

以上のように,秩序を表現する三つの語彙体系と究極的語彙の優位性を論じたうえでバークは,1947年にも取り上げたマンハイムを取り上げる。
バークによれば,マンハイム知識社会学(3月19日を参照)は「究極志向的」である。かつての論文では,知識社会学は,イデオロギーの「教義上の偏見」を暴露はするが,同時に行為への動機をも壊すと評価されていた。しかし,今回の論文でそれは,たんにイデオロギー暴露的なのではなく,それ自体が究極を志向するものであると評価される。

「だが,マンハイムの著作に登場するユートピアという理念のなかには,もう一つ要素が隠されているかもしれない。「知識社会学」が出来合いの社会学的研究に比べてもつその魅力は,社会学からほど遠い原因に負うているのである。それは,この基がキリストの君臨による至福千年説の研究に分析の根拠をおいている,という点にある。」(344頁)

マンハイムが「志向」にとどまったものをはっきりと「神話」として表現したのが,バークによれば,プラトンであった。バークはプラトンの対話篇を,イデオロギー暴露から究極的秩序の構想として読み直す。

「…まず,[プラトンの対話篇では]いくつかの声が取り上げられる。その一つ一つがちがった「イデオロギー」を代表させられている。またそれぞれが敵対関係にあるイデオロギーの仮面を剥ぐことを修辞的狙いとしている。つぎに,[プラトンの対話篇の主人公である]ソクラテスはあい争う党派の基盤となっているものを超克するような一連の一般概念を弁証法的に設立しようとする。またつぎに,このような企図が目指す先の理想的な終着点が頭に描かれる。そして,最後に,これまでの純粋に抽象観念のレヴェルに留まっていたものを神話によって描きなおす。マンハイムの場合には,それは至福千年説の姿をとったわわけだ。」(344頁)

バークは,イデオロギーの闘争を超克する究極的語彙の修辞上の優位を信じている。そして,このような究極的な語彙によって語られる秩序構想が,バークの理解する「神話」なのである。
しかし,この神話自体がイデオロギーでないという保証はどこにあるのだろうか。
バークは,イデオロギーと神話(ユートピアはその一つ)との境界を見定めようとして,次のようの述べる。

「…両者の根源に潜む質的差異を,前向きのユートピア志向のイデオロギーと,後ろ向きのイデオロギーの違いとして見ることができるかもしれない。それゆえ,イデオロギーと神話(ユートピア)がともどもにもつ偏見を正そうとするかぎりにおいて,われわれは自分自身から動機を奪うことを意味する。しかしもちろん,もし神話がイデオロギーの勢力範囲を超えたところにある動機を比喩表象するものとして理解されたとしたら,神話の動機はあい争うイデオロギーのなかで扱われる動機形成の秩序次元を超えて存在するように感じられるであろう。神話の動機は「究極的」であり,イデオロギーの動機はそうではない,ということになろう。」(348-349頁)

このような究極的な動機の存在を,私たちは信じられないかもしれない。しかし,ときに偉大な人間の行為のなかに,その片鱗のようなものを感じることがある。たとえば,アウシュヴィッツ=ビルケナウ絶滅収容所で身代わりの死を遂げたコルベ神父や,インドで活動したマザー・テレサの行為のなかに。
その「究極的」な性格のゆえに,彼らは現代における神話である。そこにイデオロギーや教派主義しか読み取れないとしたらそれは,神話なき現代の救われ難さを示しているのだと思う。