イデオロギーと神話 1

ガスフィールド編,ケネス・バーグ『象徴と社会』森常治訳,法政大学出版局,1994年


3月3日に取り上げたケネス・バーグから。
本書は,社会学者J. R. ガスフィールド(Joseph R. Gusfield)の手によって編纂されたケネス・バーグ読本ともいうべき書物。原書の出版は1989年である。
冒頭に編者によるケネス・バーグ紹介の文章があり,特に社会学とケネス・バーグの仕事の関係について示唆を得ることができる。
訳者あとがきによると,ガスフィールドは1923年,シカゴに生まれ,シカゴ大学社会学博士号を取得,カリフォルニア大学(サンディエゴ校)教授を務めるほか,太平洋社会学学会会長などの要職を歴任したという。
ところで,一昨日(3月17日),人文社会学系の学問は,究極の目的や優先すべき価値に関わるということを言った。(実際には,いずれの学問もそうしたことを直接に論じているわけではない。それどころか,そうした究極的なものとの連関も忘れさられてか,あるいはそうしたことにふれることを学問の原則として禁欲してか,門外漢からみれば細かな技術的な問題をあつかっているようにしかみえない研究が大部分である。私自身も,それを直接論ずべきだとは全く思っていない。)
そうした目的や価値を言葉に表して議論をはじめれば,それこそ「神々の闘争」とも言うべき対立になる。
それを避けて,事実にしか関わらない事柄を述べようとしても,その記述もまた,価値や目的を含みもってしまうところに,問題の難しさがある。このような事態は,これまでイデオロギーとして論じられてきた。
ケネス・バーグは1947年の論文「イデオロギーと神話」でイデオロギーを,神話と関連づけながら興味深く論じている。

「出発点のためのおおよその概観としてまず,「イデオロギーと神話の関係は修辞と詩の関係に等しい」という比例関係を掲げておきたい。この定式はイデオロギーはより修辞の方向へ向かい,神話はより詩の方向へと向かうという限りにおいて少なくとも有効である。」(483頁)

冒頭のこのテーゼは,いかにも批評家らしい着眼点が光っている。
修辞とは,公的な場面において言語伝達を有効にする技術である。修辞は,しばしば詩を用いる。修辞が詩を用いるのは,詩の喚起するイメージを用いて,観念を伝えるためである。
修辞は観念に傾斜し,詩はイメージに傾斜する。同じように,イデオロギーは観念に傾斜し,神話はイメージに傾斜する。イデオロギーは神話を用いて人々に訴える。つまり,観念はイメージと重ねられて伝えられる。

「ナチの宣伝屋たちはイメージ群や祭式の使用にきわめて巧みであり,そのために彼らの政治的イデオロギーのもつ魅力を増大できたのであった。しかしながら,[それは一般にも言えることであり,]国際的事件を生命線とか,下腹部[弱体な地域の意]とか,鉄のカーテンであるとか,力の真空地帯とかいったことばで扱う習慣に思いを致せば,すぐに観念とイメージとの重なり合いが認められるのだ。」(483-484頁)

日本もかつてある地域を「生命線」と位置づけて戦争に走ったことがある。「生命線」という言葉は,ある観念をメタファーで表現したものだが,このメタファー的転用は様々なところで見られる。
たとえば,「インタレスト(interest)」という言葉は,一つの意識や感情を持った主体に対して用いられる言葉だと思うが,民族や国家に転用されて,「ナショナル・インタレスト」という言葉を生み出す。私たちは,「ナショナル・インタレスト」(日本ではいつしか「国益」という言い方が一般化している)を事実そのものと考えがちであるが,しかしそれは社会的事象そのものではなく,あるイデオロギーを詩的あるいは神話的に表現したものである。

「…もしわれわれが「ナショナル」という語をもっと詳細に調べてみると,この語は二つの意味に分裂してしまう。その一つは,国民全体に適用される形容詞としての意味であり,他は特定の市民,または海外で操業している企業を就職する形容詞としての意味である。
…一部の国民や国の特定名企業の利益を守ることが国家・国民全体の利益に反することもある。…ある「国家」が別の国家の領土を,たとえば5億ドルの費用を使って占領するとしよう。またこの占領がその期間中に,国民の一部特定グループに1億ドルの儲けを可能にした,としよう。他のすべての条件が同じならば,結果として国家全体としては損失があったわけだ。国民の一部特定グループはその損失を利用して儲けたにすぎない。となると,同じ「ナショナル・インタレスト」にしたところで,二つの概念に分裂することになる。そして,こうした弁別を必要とするときに弁別を怠るような語の使用こそが,「イデオロギー的」と呼べるかもしれない。」(486頁)

日本の植民地政策が日本の持ち出しであった,むしろ彼の国の利益になったのだということを言って,だから日本は決して悪いことをしたわけではない,と強弁する人々がいるが,ケネス・バーグによれば,それはきわめて「イデオロギー的」だと言えよう。
社会や歴史の出来事を語る言葉は,イデオロギーと切っても切れない関係にある。学問は,言葉の用法に注意し,言葉に孕まれるイデオロギーを「暴露」することに,その重要な役割がある。
しかし問題は,イデオロギーに含まれるような非弁別的な言語をなくすことが,別種の問題を生み出すということである。バークは,マンハイムに則しつつ,その点を指摘する。やや長いが引用したい。

カール・マンハイムの『イデオロギーユートピア』のなかではこの種の[ナショナルという言葉がもったような]多義性があますところなく考察されている。マンハイムが見るものは,現状の安定をねらった語彙,そして,現状から最も利益を得ている支配階級グループの耳に心地好い語彙体系のなかに潜んでいるような多義性である。また彼は未来を約束するような性格によって人びとを行動へと駆りたてる語彙系によっても,同じような偏向が生まれる,という。というわけで,これら二つの偏向をそれぞれ区別して,前者を「イデオロギー」,後者を「ユートピア」と呼ぶ。…
マンハイムの考えはこうだ。さまざまなイデオロギーユートピア間の葛藤において,それぞれの主張者は互いの戦略のなかにある多義性の仮面を引き剥がす。そしてこの葛藤全体から最終的に現れるものは,真なる弁別と分析方法なのだ。それはプラトンの対話において意見を戦わせることで真実に近づく方法に似ていて,それを彼は「知識社会学」と呼ぶ。……
…私がマンハイムの主張を見通したところでは,主張の成功自体が主張を駄目にしてしまう地点に至るしかない。なぜならば,「イデオロギーの仮面引き剥がし」から由来するような[幻想から解放された]明晰な全体像や,「ユートピア的要素の社会全体からの完全な消失」とともに訪れるものは,行動へ向けての刺激の喪失があるからである。」(489頁)

「神々の闘争」に喩えられるイデオロギーのぶつかり合い,その仮面を引き剥がすことによって党派性を超えようとする「知識社会学」。前者は,無弁別的な言葉によって人びとを動かし,激しい葛藤と紛争へと導く。後者は,それを超えようとするが,しかし超えた先で何をするのかを教示し得ない。
バークは,ここに「神話」が登場する契機があるという。
神話についてはまた次回。