排除する心

滝川一廣『家庭のなかの子ども 学校のなかの子ども』岩波書店,1994年


昨日に続いて,本書の議論を紹介する。
昨日は,第一部の「家庭のなかの子ども」を話題にしたが,今日は第二部「学校のなかの子ども」から。著者は,村瀬学(7月21日で引用)の論考(『子ども体験』1984年)を引用しつつ,この当時の学校社会で起こっていた排除の構造を掘り起こしていく。

「ここでもう一度,村瀬学の論考に立ち戻ってみたい。先の引用箇所[宮沢賢治風の又三郎』に触れつつ,「いじめ」を論じた箇所]に続く部分である。


「その子は実際はふつうの何でもない子なのだが,二,三のちょっとした弱点を拡大され,からかわれるうちに,その子の身の上に,しだいに奇異なるものが予感され,それが実体化されてゆくことになる。(中略)/こうして『風の又三郎』の赤髪の子が「神の子」扱いされ,別の子が魔物のように忌み嫌われる構造とが,同質のものであることがみえてくる。私はそれを「異形視現象」と呼んできたのだが,この「異形視」はつきつめると神様扱いされるか,魔物扱いされるかどちらかにゆきつくのである。(中略)/こうした現象は,まさにその秩序づけられる世界が,閉鎖的になればなるだけ強化されて出てくるのである。もしその秩序づけられた世界が,周囲の世界に対して開放的であり,開かれていればいるほど,その間の差異を目立たせることは少なくなるはずである。いいかえればそこがあまり秩序立てられていなければ,周囲の流動的な世界とのゆききはたやすくなるはずである。しかし悲しいことに,今日の≪教室≫は益々秩序づけられる方向にあるし,そこで秩序づけられる子どもたちは,どこかで必ず混沌を求め,それを見出すべき≪入り口≫を無理につくり出しては,自分の欲求をみたそうとしてしまうことになる。」


そして村瀬は次のように結論づけている。


「だから[「いじめ」をなくすために]どうしたら教室が平等の秩序を保てるのか,ということばかりに焦点を合わせる教師は根本のところで失敗していることになるだろう。大事なことは教室の秩序の中に,いかに≪未知の世界≫への入口を発見するかという所にあったからである。そういう「入り口」が見つけられるなら,子どもたちにとって,一人の子をいじめるよりかよっぽど楽しい境界越えが体験できるだろうからである。」(144-5頁)

この村瀬の議論に対して,著者はひとまず次のように賛同する。

「そのとおりだと思う。・・・村瀬は,かつては「風の又三郎現象」であったものが,今日では「いじめの現象」として現れている理由として,今日の「教室」が益々秩序づけられ,整然たる閉鎖空間になっていく方向にあることを示唆している。」(146頁)

このように著者は,村瀬への共感を表明しつつ,しかし,教室の秩序化・管理化に対する村瀬の批判を次のように相対化する。

「かつては「風の又三郎現象」であったものが,今日では「いじめ現象」として現れてくるのは,教室で子どもたちがある対象に対してなんらかの違和意識を抱いたとき,それが<不思議>や<おそれ>として体験されえず,端的に<違和(異物)>としてしか体験されない傾向が大きくなったことを示しているのだと思う。そのため,今日の「いじめ現象」は,たんに支配や攻撃ではなく,「(異物の)排除」という構造を大きな特徴としてもつのであろう。・・・「いじめ」をめぐって,近頃の子どもたちがとりわけ「思いやりがなくなった」とか,とりわけ「ひよわ」になったとか断ずる前に,こうした「いじめ」の構造の変容に目を向けたい。」(193頁)

著者は,以上のように論じた上で,排除を次のように批判する。

「(異物の)排除」という志向性は,あまりよいものではないと思う。「排除」は倫理的悪だとする先験性に基づいて,そう思うのではない。第一の理由は,「排除」は問題解決として見たばあい,対象を再統合したり,価値を新発見したりという止揚の契機を内在させていないからである。・・・・
第二の理由は,なにが「雑草」「害虫」でなにが「益草」「益虫」かは,人間の─少なくとも草や虫の立場からは─勝手な都合(恣意)による分類であることからもわかるように,なにが(排除されるべき)「異物」かは,実はまったくの恣意性の問題だからである。・・いつどう転んで自分が排除の対象になるかもしれない可能性を,「排除」の構造は秘めていることを意味する。」(194-5頁)

排除を先験的に批判する前に,それが何故悪いのかを考えておくことは,大切なことだと思う。
集団のアイデンティティを成り立たせるためには,しばしば排除が作動するが,そのとき,集団(への所属)のために,排除を正当化したり,仕方ないとあきらめたりすることが,しばしば起こりがちだから。

他方で,村瀬氏の議論にある「≪未知の世界≫への入り口」ということも,忘れてはならない視点だと思う。私にはこれが,管理を批判すればすぐに手に入るようには思えないけれど(もちろん,村瀬氏もそんな単純なことを言っているわけではないが),集団が抱える排除の構造が,「異物」にかわって「未知なるもの」と出会うことによって,排除性を弱めることはできないか,とは夢想する。(7月27日の記事も参照。)

なお,本書は90年代前半の著作であり,学校の現場も本書が扱う状況から変わっているのかもしれない。たとえば,先日の朝日新聞の朝刊(7月26日)には,公立の小中学校に対する信頼が回復しつつあるという調査結果が報道されている。関心のある方は,是非ご確認を。

*今回も登場した村瀬学氏の,7月21日に引用した著作について,厳しい批評があるのをたまたま目にした。批判のポイントは,時代遅れの役に立たない議論だという点にある。もしかすると,今回の滝川氏の著作に対しても,同じような批判がなされうるかもしれない。
このような批判の背後にある関心(実践性や現代性)を前提するならば,それらの批判にも頷ける。しかし,ここで紹介するのは,具体的な「障害」や「症状」への対処法を学ぶためではなく,“問題”とされる事例を通して人間の世界を考え直す手がかりを手に入れるためである。このような関心からみたばあい,村瀬氏や滝川氏の著作にはきわめて興味深いものがある,といっておきたい。