スープ一杯のつながり

五味太郎・小野明『絵本をよんでみる』平凡社ライブラリー,1999年


絵本作家の五味太郎氏が,絵本・児童書のプロ・小野明氏と対談形式で絵本をよんでいく。取り上げられるのは,ディック・ブルーナうさこちゃんとうみ』,バイロン・バートン『よわむしハリー』,長新太『キャベツくん』等々。本書はもともと,1988年にリブロポートから刊行されている。
絵本には,いろいろと考えさせられることが多い。ノン・フィクション作家の柳田邦男氏も近年,(未見なのだが)『砂漠でみつけた一冊の絵本』や『大人が絵本に涙する時』などを出している。大人対象の絵本紹介も目につくようになった。個人的に最近(恥ずかしながら)涙した絵本は,カレン・ガンダーシーマーの『とっときのとっかえっこ』(童話館)である。
絵本は,共同性のイメージの原基的な表現であるように思う。そしてそれが,とりわけ19世紀のイギリスで発展してきたということは,近代社会のある特質を絵本が示しているといえる証拠ではないかと思う。
古典的な絵本モーリス・センダックの『かいじゅうたちのいるところ』(原題は WHERE THE WILD THINGS ARE )を素材とした,五味太郎氏の読みを紹介しよう。

「・・『かいじゅうたちのいるところ』の「かいじゅう」だけど,これ原文では,。これ,ヤマ場ね。この WILD THINGS を神宮輝夫は,「かいじゅうたち」って訳しているわけだけど,翻訳のいい悪いじゃなくて,この WILD THINGS は「かいじゅうたち」ていうふうに決めないで読んでいったほうがおもしろい・・・」(261頁)

なぜ,WILD THINGS を「かいじゅうたち」と限定しないのか。そこには,絵本世界に通じた五味太郎氏ならではの人生観が背後にある。
ところで,『かいじゅうたちのいるところ』は,腕白なマックスの悪戯から始まる。それに怒ったお母さんが,マックスを部屋に閉じ込める。絵本の主要部分は,部屋に閉じ込められたマックスの想像,あるいは夢からなる。

「・・[主人公のマックスが]部屋に閉じ込められてからのこの本の展開の仕方は,とてもナチュラルなものだという気がする。暮らしていくっていうことが,もう WILD THING なんだよね,っていう形の中での,彼の遊び心のようなものが彼の幻想を生み出していく。閉じ込められた中ではもう退屈だから,イメージしかない,という原則だと思う。「心理の鉄則」っていう感じかな。だからここからあとはの展開は,ヤマ場というよりはごく自然な展開だと思う。・・」(266頁)

人生はそもそも WILD なもの,五味氏はそう考えているようだ。しかし,学校の中であれ,家庭の中であれ,社会の中で WILD な行為をし続けることは許されない。だから,イメージが出てくる。マックスの思い描く「かいじゅうたち」は,この野生の幻想的形態なのだ。

「・・親が子どもああいう服装を認めていて,部屋に閉じ込めて,さらに夕食をもっていくっていうのは,「アメとムチ」なんていう陰気な話じゃなくって,こういうことが日常的なんじゃないか,という気もする。WILD な妄想を見ながら暮らしていく日常の楽しさみたいなものも,この本のもっている楽しさかもしれない。さらに言えば,今ここで見えていないお母さんと子ども自我のズレ,ズレて結構,それをつないでいるのは一杯のスープでしかない,という切なさみたいなもの。それからそういう切なさがあるから,あとは勝手に WILD にやれるのよね,っていう救い。もしお母さんがあの扉の絵のようにマックスと遊んでいたら,また別の意味で彼はウンザリしてしまうかもしれない。・・」(278頁)

お母さんがマックスと遊ぶということは,この WILD THINGS が WILD THINGS でなくなるということ(お母さんに飼い慣らされた WILD THINGS はWILD でない),あるいは, WILD THINGS が WILD THINGS としての意味をもつ普通の社会が壊れているということ(WILD なマックスを注意するお母さんという社会が存在しなくなること)である。
だから,五味氏はうんざりするというのだろう。
それにしても,よく考えねばならぬことは,このような WILD THINGS を生活から排除することはできないということ,そういうものを抱えながら,人間は生きていかなければならないということ,である。
その事実は,一方で,幻想を見る楽しさを保証することかもしれない。しかし他方で,人間関係の潜在的な危うさなのだとも思う。
だから,たとえば家族を維持するということでさえ,実は大事業なのだ。WILD な本性を抱えた人間が共に生きていくためには,一回一回の食事に象徴される日常的な習慣や慣習が致命的な重みをもつのかもしれない。