見えない彼方

上田閑照『実存と虚存』ちくま学芸文庫,1999年


昨日までの話題を,哲学的に扱っているものはないかと考えて,本書が思い浮かんだ。
上田閑照氏は,1926年生まれで,西洋神秘主義思想(エックハルト)や禅の研究をもとに,独自の宗教思想,人間学を展開している。
本書は,もともと『場所—二重世界内存在』として弘文堂より1992年に刊行された。文庫化にあたって,第七章が加筆増補されたという。
以下は,第1章「世界と虚空」から,二重性に関わる記述を抜き出す。西田哲学の系統を継ぐ叙述には,なかなかとけ込めないかもしれないが,しかし,言っている事自体は単純だと思う。

「我々が世界の内にあるということは,・・無限の開けに「於てある」世界に「於てある」(二重の「於てある」)ということ,我々の居る場所は場所として最終的に二重になっているということである。それは,再び西田幾多郎の術語で言えば,「有の場所/絶対無の場所」という二重性である。これは二つの別々の場所の重なりという事態ではなく,有の場所があるというそのことが,有の場所が絶対無の場所に於てあるということなのである。・・・」(29頁)

我々が世界の内にあるというのは,よいだろう。その世界は,「無限の開け」にあるという。これはどういう意味か。

「世界が世界として有限であるということは,とりもなおさず,世界を超えて世界を包む限りない開けがあるということである。」(28頁)

我々は,このように,無限の開けに於いてある世界に於いてある,という二重の場所の規定を受けている。ところで,この二重性を理解するには,「地平」というメタファーが有効である。

「事柄の理論的考察のためには,特に問題の二重性の構造の究明には,現代の哲学において「経験の地平的構造(die Horizont-Struktur der Erfahrung)」ということが言われる際の「地平」現象が,二重世界論への適切な手引きになるであろう。・・包括的な意味空間としての世界は経験の最終地平であり,世界を越えた「意味の地平」は存しない。我々にとって「有るもの」はすべて世界地平上にあらわれたものである。地平上にあらわれたものだけが我々にとって「有るもの」,しかもこれこれ「として(als)」という意味をもって「有るもの」となる。その際,我々の位置によって地平も動き,主観と地平との相関性から様々な意味の場が開かれてくる。」(29-30頁)

「・・として」現れるという部分が重要だと思う。
昨日の話題に置きかえて言えば,字義的な意味も,比喩的な意味も,ともに我々にとって,「・・として」顕れる意味である,ということ。
さらに言えば,アナロジーとは,「主観と地平との相関性から」現れる「様々な意味の場」をつなぐ論理と言えようか。
しかし著者の関心は,この世界の「として」を超えたところにある。

「・・・ところで地平構造にはもう一つ基本的な事態,あまりに基本的で自明なために却って注意から免れているような事態がある。すなわち,地平には必ず「地平の彼方」が有るという絶対的な事態である。・・「地平の彼方」は,すべての有るものが意味をもって有るものとして顕現するための地平の構造そのものに属している事態である。・・地平の彼方は永遠に隠されている。しかし永遠に隠されている地平の彼方が有るということは地平がある(有るものが現れる地平があるということと一つに与えられている。その限りにおいては地平の彼方は,或る仕方で,永遠に隠れたものとして顕れているわけである。しかし我々は通常地平上に顕れたものに目を奪われて,見えない彼方があるということを忘れている。・・」(30-31頁)

アナロジーを成り立たせる世界の根源には,(西田哲学の言葉を使えば)「絶対無」の場所がある。
このように,認知心理学が有の場所に限定されているのに対して,哲学は無の場所を指し示し,日常の世界を超える視点を提示する。
ところで,何故,日常の字義通りの世界理解を超える必要があるのか,と問われるならば,それは,比喩的な意味を解釈するところに人間らしい世界が成り立つからであり,その比喩的な「・・として」ある世界を成り立たせる世界の根源を見ないと,「・・として」の世界が牢獄になってしまうから,と言えようか。
もちろん,「人間らしい世界」ということには,もっと説明が要るだろうけれど。