人間存在の二重性

上田閑照『実存と虚存』ちくま学芸文庫,1999年


ここ数日問題にしている,人間存在(とりわけ,言葉)の二重性のもっともわかりやすい例は,宗教かもしれない。ただし,宗教それ自体,また宗教学も,その二重性の成り立ちを理論的に語ることは少ないようである。

「[エリアーデによれば]一個の石が聖なる石であると共に自然界に属する一個の石である。ここに二重性が客観的に語られている。しかし,その「と共に」に現れている二重性の連関そのものについては・・はっきりしなくなる。」(145頁)

著者は,エリアーデの洞察の深さと,その理論的解析の欠如を指摘する。

「「つまり,見たところ(正確には,世俗の観点から見れば)それを他のすべての石から区別する何物もない。しかし,石が聖なるものとして啓示される人々にとっては,その石の直接のリアリティは何か超自然的なリアリティに換質されるのである」[エリアーデ『聖なるものと俗なるもの』からの引用]。「と共に」を説明しようとするこの説明は,しかし,「と共に」という二重性の連関の説明になっておらず,同じ石が世俗の観点からは「一個の石」であり,その石においてヒエロファニーに触れる宗教的人間にとっては超自然的なリアリティとしての「聖なる石」であるという二種類の経験の質的区別の説明に逸れている。問題は,この説明の言葉に合わせて言えば,宗教的人間がいかにして同時に「世俗の観点」をとることが出来るかという問題であった。」(145-6頁)

たしかに著者が指摘するように,エリアーデにおいては,宗教的なものに関する論理的な説明が不十分かもしれない。
しかし,聖なるものの顕示を認めてしまうならば(人類の歴史の中で,それを認めてきた人びとは決して少なくはない),その理論的解析の必要性などはあまり感じられないのも当然かもしれない。理論的出発点の違う者の間では,問いの射程も異なってくるのだと思う。
いずれにせよ,宗教とよばれる人間経験の背後に,人間存在の二重性があるという洞察は貴重なものだと思う。もしも宗教が,人間存在の二重性を基盤として生じるものだとすれば,人間から宗教なるものを切り離すことは不可能なのだろう。
それを自覚するならば,現代日本の表層的な宗教嫌悪の背後で広がる,(宗教とは名乗っていないが)宗教的とも言い得る世界認識に,もう少し敏感になることもできるかもしれない。

ところで著者は,宗教的人間から出発するエリアーデとは異なって,現にある世界から出発する。

「すなわち世界から出発し,さしあたって世界に留まる[そのような道筋をとる]本論の歩みに対して,世界のあり方そのものからして世界を超え包む限りない開け(メタファとして「虚空」)への展望が与えられてくるであろう。そして,展望が開かれたところで翻って全連関を見なおすことになるであろう。そこで,宗教という現象が人間存在の構造を読み取る一つの基本的な手がかりになるであろう。」(165頁)

著者の道行きは,世界から出発し,世界の彼方へと開かれ,その上で,全連関の展望から,宗教が見なおされる。世界の二重性は,どのように異なった仕方で捉えられているのか。

「その場合,「もう一つの次元(別次元)をもつ」とエリアーデが言う事態そのものは,同じく基本的事項とするが,しかし「別次元をもつこと」をエリアーデの如くに特に「宗教的」あり方なるが故にとせず,むしろ世界のあり方,世界の構造そのものからして「世界の内にあること」と一つに人間存在に固有なことと見る。経験の構造そのものの中に経験の地平としての世界と「地平の彼方」が重なっていると見るからである(すなわち「二重の世界」)。この二重性は,エリアーデにおける世界/コスモスに類比的であるが,意味の総枠としての世界から出発する故によりはっきりと分節されており,また単に平行的ではなく「世界の内にありながら世界を超えて」というパラドックスの性格を強く示す。」(165-166頁)

人間存在のこの固有性は,さまざまな仕方で語られてきたように思う。そこには科学のような累積性はみられないが,しかし発展がないというのではない。そうした言語を豊かにしていくこと,そして,そこに通底する構造に関して,それぞれの視点の限定性を踏まえつつ,共有できる認識を確認していくこと,そういうことが大切ではないかと思う。著者のエリアーデ読解はその模範を示しているように思う。