破壊の戦慄

タラル・アサド『自爆テロ』(苅*田真司訳:「かり」の字は正確には,くさかんむりに列)青土社,2008年


今日は,広島・原爆の日

哲学的な話が続いたので,現実世界との関わりを意識できる文章を引いておこうと思う。

タラル・アサドは,1933年,サウジアラビア生まれで,ニューヨーク市立大学大学院教授。『宗教の系譜』や『世俗の形成』などの著作が邦訳されている。本書は,磯前順一氏による解説「ディアスポラの知識人タラル・アサド─他者と共に在ること」に加え,アサドの主要著作リストも備えてており,「自爆テロ」を考えるためだけでなく,アサドを知る一冊としても,すぐれている。
以下は,本書の第三章「自爆テロの戦慄」の冒頭から。

「・・なぜ西洋の人々は,自爆行為の言語的・視覚的表象に対して,戦慄[horror]を表明するという形で反応するのであろうか? 独裁政権やデモクラシーによって,秘密裏にあるいは公然と犯されてきた想像を超える残虐行為が,今日では世界中で明らかになっている。たとえば,犯罪と刑務所システム,人種に基づく移民政策と民族浄化,拷問と帝国戦争などである。にもかかわらず,自爆行為の場合にだけ,リベラルな道徳主義者が,戦慄という反応を示すのはなぜなのであろうか。・・」(98頁)

さまざまなる残虐行為がある中で,とりわけ自爆テロに何故,戦慄を感じるのか。アサドは,この問いに対して,戦慄の現象学とでもよぶべきものを展開する。

「・・そもそも戦慄とは何であろうか。・・・ここでは,スタンレイ・キャヴェルの議論が参考になるだろう。彼は,こう書いている。「戦慄とは,自己のアイデンティティの危機の認識に対して,私が与えた名称である。つまり,アイデンティティが失われたり,浸食されたりする認識,自分が自分以外の何かである,何かになる,あるいは,自分自身を見失うという認識である。それは,我々を人間たらしめているものについての説明が必要であるにもかかわらず,それが説明不可能であるという認識である。」・・」(102頁)

戦慄を,自己のアイデンティティの危機の認識とするキャヴェルのコンセプトを手がかりとしつつ,さらにそれを拡大することによってアサドは,自爆テロによってもたらされる戦慄を説明しようとする。

「・・強調しておきたいのだが,この意味の戦慄は,自分自身のアイデンティティが危機にさらされているという認識に対してだけでなく,他者のアイデンティティの危機に対しても同様に適用される。また,人間個人のアイデンティティだけではなく,人間の生活様式アイデンティティに対しても適用可能である。このように理解した場合,戦慄は,悪の突然の発見や破滅の恐れといった筋がはっきりとしているジャンル─ホラー映画やホラー小説といった─とは本質的に異なるものである。戦慄とは,感受される存在の状態である。戦慄は,想像界,すなわち,可塑的な人格が,自己のアイデンティティを自身に対して誇示する空間を破砕するのである。」(102-103頁)

これだけでは,なお抽象的である。アサドはこれに続いて,イェルサレムで起きた自爆事件の記述を引用した上で,戦慄が「想像界」を破砕するということの意味を次のように記していく。

「この引用で行われている説明は,著者の怒りや苦悩,そして同情といった感情を反映している。しかし,それとは違うもの・・・も,読み取ることができる。女性の血まみれの手が異星人のもののようだと記されていること,路上に転がった自爆実行者の頭部が恐ろしいマスクに見えること,男の背中と頭が炭のように燃えていること,彼女の娘の腕が自然な形ではないこと。ここで提示されているのは,死と負傷の光景だけではなく,肉体の形の混乱である。それは,見慣れた親しい友人の顔が,自分の眼前で崩れていくようなものである。」(105頁)

ところで,想像界を破砕する戦慄は,事実そのものなのであろうか。アサドは,戦慄を呼び起こす記事そのものが,そのようなものとして構築されたものであるということを指摘する。

「こうした記述はすべて,痛ましい細部(何人かの犠牲者の名前や個人史)と織り合わされている。しかし,こうした細部は,はるか後になって得られた情報に基づいて描かれたものであり,それによって事件をきわめて劇的なものとする効果を上げている。ここで書かれていることが真実でないと言いたいのではない。そうではなく,それが構築されたものだと言いたいのである。・・・ここで決定的なのは,次の二つのことである。著者の本能的な戦慄の感覚(それは,ひどい自己を目撃したときにも感じられるものかもしれない)の存在と,彼がそれを自爆者の行為としてはっきりと再構築していることである。」(105頁)

このようにアサドは,「戦慄を与える直接的な経験と,その記述的再構成によって得られる二次的な経験を注意深く峻別しながら,戦慄が生み出される契機を丹念に再構成していく。そして,その分析が最終的に行き着くのは・・近代のリベラル・デモクラシー国家が抑圧している暴力性の契機である」(訳者あとがき,251頁)。これについては,明日にまた。