残酷さと優しさ

タラル・アサド『自爆テロ』(苅*田真司訳:「かり」の字は正確には,くさかんむりに列)青土社,2008年


昨日の続き。
以下で論じられている事柄に付け加えるべき言葉はないのだが,このような人間のあり方を理解することで,「マニ教的な二分法的思考」を自覚できるならば,と思う。

「近代リベラル・デモクラシーは,人間主義と,世俗主義を公言している。そして,リベラルたちは,近代ヨーロッパに大混乱を引き起こした宗教的な熱狂から距離をとっている。宗教的な残酷さに付随する中世的な感覚は,彼らには明らかに戦慄と見なされる。」
(126頁)

アサドは,このようにリベラル・デモクラシーの世俗性を確認する。しかし,アサドによれば,この世俗性は宗教的なものと無関係ではない。引き続き引用すると,

「しかし,近代の人間主義的な感性の系譜学は,無慈悲さと共感を接続し,残忍な殺害行為が,この上ない悪であると同時に最高の善である得ると主張する。第一次世界大戦史の専門家であるリチャード・ギャンブルは,次のように記述している。「時代による程度の違いや強調点の移動はあるものの,アメリカ人が常に救済的,黙示的,あるいは拡張的な言語に引きつけられてきた,という点に関しては,驚くべき一貫性がある。・・」・・」
(頁)

このような救済的,黙示的言語は,もちろんキリスト教に由来する。

キリスト教史家は,後期中世思想の償いに関する思想─とりわけ,キリストが最後に経験した激しい苦痛と,人間の救済にとってのその意味─の重要性を強調している。その議論によれば,十字架上でのキリストの残酷な死によって,信仰厚いキリスト教徒の間に,人間の苦痛に対する特徴的な感受性が生み出されたことを,図像や言葉あるいは行動から示すことができる。改悟の徴は,キリストの「人間的な」受苦・・に対する共感によって測られる。」

こうして,キリストの受難の生き方が,信徒の生き方のモデルとなってくる。

「キリストの苦痛と悲嘆をきわめて詳細に描いたいわゆるキリスト教受難論考は,一五世紀や一六世紀にはきわめて一般的なものであり,ヨーロッパのいくつかの言語で作られた。そうした図像と言葉には,キリストが至高の殉教者として表象され,彼の人生が救済の摸倣(Imitation Christi)のためのモデルとして提示されている。」

アサドは,このモデルが,世俗的リベラルの近代における信仰の不可欠の一部になっているとみる。

「特に,「キリストと一人一人の人間との個別的な関係を強調している」点で,それは近代の信仰の不可欠の一部となっている。このキリストの苦痛との受動的な融合は,苦痛に対するより積極的な態度を前提とする世俗的な感受性に道を開くことになった。・・・もし,「国のために死ぬ」ことが,今日のリベラルたちにとって,やや異様で疑わしく思えるとしても,「デモクラシーのために死ぬ」ことであれば,尊敬に値するものに思えるであろう。」

アサドは,世俗的なリベラルが不快なものと感じる,自由主義以前の時代のキリスト教における犠牲や血や死の儀式が,近代自由主義の系譜学の一部なのであり,そこでは暴力と優しさが並置されていると指摘して,次のように述べる。

「一方で,この世での個人のアイデンティティを構成し,その健康と安全を保護している国民国家を防衛するために必要であれば,(虐殺や自殺をも含む)いかなる手段でも用いるべしという命法が存在し,他方で,あらゆる人間の生命を尊重し,死の代わりに生を人類全体に提供する義務が存在しているのである。前者は,残酷になることができる能力を仮定しており,後者は思いやりの能力を前提している。この矛盾そのものによって,特定の種類の人間主体が構成される。その作動は,この矛盾がおそらく永遠に解決されることなく,継続的に働き続けるという事実に依存している。」(129頁)

アガンベンならば,生政治の問題として指摘するだろう,そのリベラル・デモクラシーに内在する問題系を,アサドは宗教の系譜学から明らかにする。リベラル・デモクラシーを簡単に否定するわけにはいかない。しかし,それにたいする信仰を簡単に表明するわけにもいかない。そうした窮地のなかに私たちは置かれている,のだろう。