死して有る生き方

エックハルトエックハルト説教集』(田島照久編訳)岩波文庫,1990年


マイスター・エックハルト(Meister Eckhart)は,1260年頃,中部ドイツの貴族あるいは騎士の家系に生を受けた。ドミニコ会に入り,各地で教育を受け,最晩年のアルベルトゥス・マグヌスの教えを受けたと言われる。1327(8?)年没。
エックハルトの教えは,異端の疑いをかけられ,没後1329年に,異端宣告を受け,その著作や説教の聞き書き写本のいっさいが禁止されたという。その教えの継受は,密やかに闇のなかで行われ,ドイツ神秘主義の流れをつくっていく。

引用は,説教「死して有る生き方について(ヘブライ人への手紙第11章37節)」から。
死をどう理解し,どう想像するか。それは,現世の生き方に直結する。

「・・[殉教者について]「彼らは死して有る(sie sint tot)」と書かれている。死はつまり彼らにひとつの有(う)を与えるのである。ある師は,自然は,よりよきものの代わりに与えることなしには,いかなるものも破壊することはない,と語っている。・・自然でさえこのように働くのであるなら,神の働きにあってはなおさらである。神は,より善きものを代わりに与えることなしには,けっして破壊することはない。殉教者たちは死んでひとつの命を失った。しかし彼らはひとつの有を受け取ったのである。・・」(頁)

殉教者が受け取った有とは何か。それは,やや神秘的で,簡単に理解することはできないが,神の存在に与るということのようである。

「神の最も固有な本質は有である。・・有はひとつの原初なる名である。不完全なものはすべて有からの脱落である。わたしたちの命の全体はできるならひとつの有でなくてはならない。わたしたちの命がひとつの有であるかぎり,そのかぎりにおいてわたしたちの命は神の内にある。わたしたちの命が有の内に納(い)れられているかぎり,そのかぎりにおいてわたしたちの命は神と似たものとなる。」

では,神の有のうちにあるということと死とはどのような関係にあるのか。

「・・・わたしたちは神の内における死を称える。神はわたしたちを命よりすぐれたひとつの有の内に移すことをめざしているのである。わたしたちの命がそのうちで生きるひとつの有,そのひとつの有の内でわたしたちの命もひとつの有となるのである。ひとつのよりよき者が与えられるように,人は喜んでみずからを死に渡し,死にゆかなければならないのである。」(48頁)

本説教の聖書箇所は,ヘブライ人への手紙11章36節「彼らは剣で切り殺された」である。新共同訳によって40節まで引用すると,次のようにある。
「彼らは石で打ち殺され,のこぎりで引かれ,剣で切り殺され,羊の皮や山羊の皮を着て放浪し,暮らしに事欠き,苦しめられ,虐待され,荒れ野,山,岩穴,知の割れ目をさまよい歩きました。世は彼らにふさわしくなかったのです。ところで,この人たちはすべて,その信仰のゆえに神に認められながら,約束されたものを手に入れませんでした。神は,わたしたちのために,更にまさったものを計画してくださったので,わたしたちを除いては,彼らは完全な状態に達しなかったのです。」
ここにある「彼ら」とは,ヘブライ人の祖先の信仰的模範者をさす。彼らが「約束されたものを手に入れなかった」とあるのは,キリストを知る「わたしたち」との対比で言われているのだろう。
しかし,エックハルトは,殉教者たちは永遠なる命のうちに移されたという。

「・・「彼らは死して有る」,殉教者たちについて聖書はそう記している。つまり彼らはひとつの永遠なる命の内へと移されたのである。命がひとつの有であるようなかの命の内へと。人は徹底して死に切らなければならない。そうすれば愛も苦しみもわたしたちに触れることはない。」(48頁)

難解な箇所だが,訳注によると,「この世に死に切るとは,わたしたちをその有の原因である神の内の有においてつかむということである。わたしたちは自己をその原因である神の有において認識してはじめて,この世に死に切ったものとして,愛も苦しみも届かない深い平安の内に安らぐとされる」(275頁)とある。
死とは,象徴的にこの世に死ぬことであり,それが,神の有のうちにあるということである。
関連して,「ガラテヤの信徒への手紙」2章19節以下の,「わたしは,キリストと共に十字架につけられています。生きているのは,もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」という言葉が思い出される。
このような象徴的二重性が破壊されるとき,宗教は人びとを現実の死へと駆り立てる力として作用するのかもしれない。