意味なき死の意味

宮本久雄・大貫隆・山本巍『受難の意味 アブラハム・イエスパウロ東京大学出版会,2006年


長崎・原爆の日である。

本書の「はじめに」では,受難の意味を問う理由について,「それは凡そ他者の受難や抹殺の象徴である「アウシュヴィッツ以後」の時代にわれわれが生きているからだ」とあるが,もちろんその象徴に,広島・長崎を入れることに,著者らは反対しないであろう。

以下は,第1章「苦難を「用いる」—パウロにおける十字架と苦難の神学」(大貫隆)の結論部からの引用である。
執筆者三名はみな,1945年生まれ,東京大学大学院総合文化研究科教授。
引用する箇所の執筆者,大貫隆氏は,グノーシス研究で著名である。

「拙著[『イエスという経験』]によれば,イエスの十字架上の刑死はイエス自身にとって意味不明の死であった。彼の裁判の場での深い沈黙と最期の絶叫は,その謎の答えを求めて神に投げ返した文字どおり懸命な問いだった。しかし,拙著の読者と論評者の中には,この見方に躓きを覚えた人が少なくない。彼らは何に躓くのか。・・彼らの躓きの原因は・・イエスは究極的には自分の「死を死ぬ」存在でなければならないという確信にある。・・」(63頁)

死にたいする,この感覚を,大貫氏は,

「いつか来るべき自分の死が,「死ぬことができる死」,つまり「決意の死」の尊厳を備えたものであってもらいたいと願うのは,おそらく人間というものがほとんど本能的に抱いている潜在的な欲求であろう」(63頁)

と述べ,さらにハイデガー哲学のうちにあるこのような死の意味づけにたいする欲求を,アガンベンを手引きにして読み解いていく。著者は,次のようにアガンベンの言葉を引用する。

「死は決意の体験であり,「死に向かう存在」の名のもとに,おそらくハイデガー倫理学の究極の意図を体現している。(中略)それ[死]はただ単にあらゆる行動とあらゆる実存の不可能性の可能性である。しかし,まさにこのために,死に向かう存在のうちで,この不可能性とこの空虚を根本から体験するものである決意は,いかなる不決断からも解放され,はじめて完全にみずからの非本来性を自分本来のものとする。いいかえれば,実存の果てしない不可能性を体験することは,人間が世人の世界に踏み迷うことから解放されて,自分自身に自分本来の事実的な実存を可能にしてやる方法なのである。」(アガンベン『残りの時』223-224頁)(63-64頁)

ハイデガー哲学は,本来的な死を死ぬことを倫理の要においたが,それは,死の意味にたいする人間の強い欲求の現れでもあった。それは,原始エルサレム教会において見られた,と著者は言う。著者は,本章全体を通じて,原始エルサレム教会の贖罪信仰において,イエスの「十字架」についての言及が早々と消えて,「私たちの罪のために」死んでくださったという,イエスの死の有意味性に議論が流れていったとする。
それに対してパウロは,「イエス・キリストの十字架上の刑死はモーセの律法によって「呪われた」死なのだ」(36頁)ということを強調する。

イエス・キリストの十字架上の刑死は,神が自分の独り子を「呪われた」死に棄却した出来事であった。それは神の自己放棄に等しい出来事である。」(41頁)

このような無意味な死を死んだイエスというパウロの神学は,西洋思想に深い影響を及ぼしてきた。著者がその例として取り上げるのが,W.ベンヤミンである。

アガンベンによれば,『歴史の概念について』の場合には,パウロの影響は[『神学的・政治的断章』より]もっと甚大で,ほとんどこの文書全体に及んでいる。何よりも,冒頭の「断章I」でベンヤミンが自分の歴史哲学全体のいわば後見人としている「せむしの小人」とは,実はパウロを指すクリュプトグラムにほかならない。
そのベンヤミンの歴史哲学は,過去の勝利者ならぬ敗者の歴史をすべて書き留めようとする年代記作者のそれである。どれほど取るに足りない出来事であっても「かつて生起した出来事は歴史にとって何ひとつ失われたものとみなされてはならない」(断章III)。すべてのそのような過去の出来事が「完全なかたちで与えられる」とき,すなわちメシアによる「最期の審判」の日までは,どの現在にも過去の特定の出来事を救済する「かすかなメシア的な力が付与されて」いる(「断章II」)。」(65頁)

私個人は,無意味な死と有意味な死とを切り離すことよりも,それがいかにしてつながるかに興味があるのだが,しかしそれにしても,鋭い指摘であると思う。
言い方を変えれば,有意味性と死が,そう簡単にはつながらないからこそ,救済の希望も強く,深くなるのだろう。簡単な有意味性で死を装飾するなかれ,といえようか。