ただの人間

モンテーニュ『エセー』(原二郎訳)岩波文庫,全六冊,1966年


北京オリンピックで,賑やかな日々が続きますが,「平和の祭典」の陰で,深刻な問題も起こっています。
安全なところに身を置いて,このような指摘をすることにどんな意味があるのか,とも思いますが。


以下は,モンテーニュの『エセー』第二巻,第十二章「レーモン・スボンの弁護」から。
モンテーニュはただの人間を考察することからはじめる。人間のなしたと言われる偉大さや壮麗さではなく,ただの人間から。

「・・今はただの人間を考察するとしよう。外からの助けを借りずに,自分の武器だけで武装した人間,その存在の名誉と力と土台のすべてである神の恩寵と認識を抜きにしたただの人間を考察することにしよう。その見事な装具の中に,どれほどの堅固さをもっているかを見てみよう。」(第3分冊,30頁)

このように,ただの人間の姿から見ると,人間のふだん考える都合のよい話が,すべて土台を欠いた楼閣にすぎぬことが見えてくる。

「彼が他の被造物の上にもっているとするあの偉大な優越の基礎がいったいどこにあるかを,その理性の力でわかるように説明してもらいたいものである。あの蒼穹の驚嘆すべき運行,彼の頭上をかくも気高く回転する燃える天体の永遠の輝き,あの果てしない大海の恐ろしい運動が,人間の幸福と奉仕のためにつくられて,何世紀にもわたってつづいているなどと,いったい誰が彼に思い込ませたのだろうか。」(同上)

モンテーニュは,神に創造されたもの,つまり被造物としての人間が,宇宙の中心におかれると考えるおかしさを指摘する。

「このみじめで,ちっぽけな被造物が,自分自身を支配することもできないばかりか,あらゆる事物の攻撃にさらされているくせに,宇宙全体の主人であり女王だなどと自称すること以上に滑稽なことが考えられるだろうか。宇宙のほんの小さな部分も知ることができないのに,これを支配するなどとはとんでもないことである。」(第3分冊,30頁)

近代という時代は,十六世紀のモンテーニュの批評に逆らって発展してきたように思われる。形は変えたとはいえ,私たちは,なおも宇宙の主人としての人間であろうとし続けているのではないだろうか。
カッシーラーという哲学者も,上の箇所を引用した上で,次のようなコメントを書いている。「人間はつねに,自己の生きている小さな範囲を世界の中心とみなし,自己の個人的,私的生活を宇宙の規準と考える傾きがある。」(カッシーラー『人間』(宮城音彌訳)岩波書店,1953年,19頁)

なお,『エセー』はもともと一五八〇年に,九十四篇が二巻に分けて刊行されたが,それから八年を経て,一五八八年に,さらに十三篇が第三巻として刊行され,それと同時に,第一巻と第二巻には,ほとんど改作に近い大増訂がほどこされた。その後もモンテーニュは,一五八八年版を座右に置き,その余白に自筆で丹念な細字で次々と書き加えをして,死ぬ間際までその仕事をやめなかった。これがボルドー本といわれる原本であり,今日の決定版であるボルドー市版はこの原本を元にして作られたものである,という。