歴史の忘れ水

古井由吉『野川』講談社文庫,2007年(2004年)


古井由吉は,1937年生まれの,現代日本を代表する文学者である。東京大学文学部独文科修士課程を修了し,大学の教職を経て,71年に『杳子』で芥川賞を受賞,教職を辞して,作家となった。
かれの小説を特徴づける(と私には思われる)経験の立ち現れる重層的な場の表現は,人間の生きる世界の成り立ちを,その根源に遡って,考えさせる。

引用は,「忘れ水」と題された章から。バブル経済崩壊の頃の,あるひとつの記憶に関わる箇所である。今の時代がどこから来たのか,時代が変わるとはどういうことか,を考えるための記述を取り出したいと思ったのだが,本作品が物語のような形に収まらないこともあって,前後のつながりが分かり難いものとなっている。
気になった人は,是非とも,文庫そのものを手にとってください。

「・・われわれの勤勉はもともと,けだるさから発した,けだるい活力であって,勤勉はけだるいとは端的にその意味で言われたのではないか,と例の先輩のつぶやきにここでまた出会った。あの人もとうに亡くなっている。大道を驀進する占領軍の,あれは今の四輪駆動にあたるのか,頑強なトラックの列を啞然と眺めて,これでは勝てないわけだ,とまるで安堵のようなため息をついた,敗戦の民の心身はけだるい。」(115頁)

主人公は,日常の出来事に移ろいゆく思いをすくいとりつつ,戦後の出発点にあったけだるさに行き当たる。戦後の日本経済のめざましい復興も,このけだるさから逃れるための奔走であったと振り返る。

「そのけだるさは所在のなさに似て,絶望の立ち所も奪われ,奔走のほうへ振れるよりほかにない。衣食の用に追われてとは言うものの,つねに「景気」が追い立てた。「景気」の追い立てなしには生きられないような心性がついた。」(115頁)

この戦後の記憶が呼び水となって,一人の男の話が引き出されてくる。それは,奔走に追い立てられた男が,その奔走から抜け出す話である。奔走の場はダービーである。人びとの営みと馬の疾走とが重ね合わされるかのようである。

「その三十代の男性は早くから下見場に着てダービーの出場馬の入って来るのを待っていた。・・・前のレースが始まってダービーの馬たちが下見場から現われると石段から立ち上がって,目の前を通る馬たちの,馬体の検討にかかる。・・・ところがその途中でその男性は人込みを分けて下見場を離れた。
・・ただ何となく,気力が一度に抜けたのだという。・・」(117-118頁)

男は,池の端のベンチでダービーを寝過ごした,という。この話の記憶から,主人公はさらに,この男が寝過ごした時機のダービーの変化を思い返す。正確には,この男が寝過ごしたダービーの翌年のダービーのことである。

「翌年平成二年のダービーでは,馬たちの入場の時にもレース中も,超満員のスタンドからのべつ幕なしの,見境もない喚声があがるようになり,レースの後ではスタンド前へひきあげてくる勝ち馬の騎手にたいして,まるでどこかで音頭でも取ったように,甲高く喉に掛かる稚いような声を揃えて拍子を合わせて,その名を連呼するという,長年競馬場に通った人間にはそれこそ異様な光景が見られた。」(119-120頁)

歴史の変化というのは,こういうところにその相貌を現すのかもしれない。ところで,平成に入ってからの,歴史の変化とは一体何であったのか。バブル経済の崩壊過程の記憶が,このダービーと重ね合わされて思い返されていく。

「・・こちら[競馬]の景気は世の泡のはじけた後も続いて,世の中が泡の始末の遅れからさらに下降していく間にも一向に衰えず,ダービーを初めとする大レースの際の,いよいよマスゲームめいた,ほとんどオートマティックな「盛りあがり」は恒例となり,そうして七,八年も経って,世の景気が一段と行き詰まり,競馬の売上げのほうもようやく,祭りの日の相も変わらぬ騒ぎにもかかわらず,場内の一斉の喚声や手拍子も別のこととして,下降に入った頃,平成二年の盛況の中でダービー馬の馬主として表彰台に立った中小企業の経営者が会社の破綻に瀕して,一緒に負債を抱えこんだ経営者仲間二人と,同じホテルの別々の部屋で,三人同時らしく,自殺したという事件が伝えられた。」(120頁)

歴史というものを感じる時がある。それを著者は,

「置かれた時が,いま在る時よりも,くっきりとした現在となって,一瞬照らされる境」(121頁)

と言う。
おそらくそこでは,過去と現在は截然とわかたれるものではなく,過去が現在に流れ込み,現在が過去に投入される,という関係にあるように思われる。過去が生々しい現実となって浮かび上がると,現在は過去の抜け殻のように感じられる。しかし,通常は,過去はそうした現実とはならず,現在から切り離され,忘れられている。
本章は,子規の句の引用で閉じる。

「稲妻や盥の底の忘れ水 子規」(121頁)

「稲妻」のなるピュシスの中で,「盥(たらい)」の底に残る水のような人間の営みがある。忘れられた水は,ふつうは,忘れられたままである。しかし,時として,記憶となってよみがえり,人間の生々しい現実を作り出す。
古井氏の小説はしばしば,形而上学的,神話的な構造からなると言われるが,それはおそらく古井氏が,人間が生きる現実の構成そのものに迫ろうとする,稀有なる作家であるがゆえだと思う。