逆転バイバイ

杉山登志郎発達障害の子どもたち』講談社現代新書,2007年


8月11日に取り上げたこの本をもう一度。前回は,境界知能にかんする箇所からの引用だったが,今回は自閉症にかんする章から。
自閉症の体験世界は,私たちの世界(のあり方,知り方)というものが何によって成り立っているのかを教えてくれる。また,いわゆる健常者の世界だけがほんとうの世界というわけではないということも。

まずは自閉症の社会性の障害について,著者は次のようにまとめる。

自閉症の社会性の障害とは,筆者なりに圧縮すると「自分の体験と人の体験とが重なり合うという前提が成り立たないこと」とまとめることができる。」(72-73頁)

「体験が重なり合う」とはどういうことか。

「普通の赤ちゃんは一歳前ぐらいになると,何か新しいものを見つけたときに,お母さんの目をまず見る。お母さんがそれを見ていなければ,手で示し,声を上げてお母さんの注目を引きつけ,お母さんが一緒に見つめていることを確認して,笑ったり喜んだりする。」(73頁)

自閉症児の場合,このような行動が著しく遅れるだけでなく,逆転バイバイという特徴的な行動も現れる。逆転バイバイとは,手のひらを自分の方に向けて「バイバイ」と手をふるもの。この行為は,実は健常であるとはどういうことかを逆に考えさせる。

「よく考えてみると,大人が赤ちゃんに向かって「バイバイ」とするときには,手のひらは赤ちゃんの方に向いている。機械的にそれを真似れば,実は自閉症児の「逆転バイバイ」が正確なのだ! むしろ問題は,なぜ普通の零歳児が手のひらは自分のほうを向いているのに,相手に手のひらを向けてバイバイができるのかということである。」(73頁)

こうして著者は,健常児の場合,相手の体験に重ね合わせることが,乳児期のごく初期の段階から行われていると指摘する。
「体験の重なり合いという前提」がないからといって,しかし,自閉症者に体験そのものが欠如しているわけではない。独特の体験世界がある。それは,著者の言葉そのものではないが,「距離感の不在」と言えそうである。それは,大きく分けると,認知上のものと時間上のものの二つがある。
まずは,認知上の距離感の不在にかんして。

「[自閉症に特徴的な認知的な障害のために生じる]不安定で,怖い世界から自分を守るために,自閉症の幼児がとる戦略は何かというと,自分で,一定の安定した刺激を作り出して感覚遮断を行うという方策である・・彼らは言わば押し寄せる情報へのバリアーを作り出しているのである。」(80頁)

しかし,自閉症児も,成長とともに独自の認知の枠組みを作っていく。しかし,それは,

「おそらくは意識的な焦点の絞り込みによって初めて成り立つために,自閉症の注意は,あるものに注意が向いているときには,他の情報が無視をされてしまうという強い過剰選択性を抱えやすい。」(80-81頁)

また,概念化も困難であることが多い。

「たとえば我々が目の前のコップに目を留めたとする。特に特徴のないコップであれば,「コップ」という概念で我々は目の前の物体をとらえ,瞬時にしてその認知に慣れが生じてしまう。ところが,自閉症の場合には,そのコップを見たときに,どこに目を留めているのか解らない。コップの上に描かれている花の模様に目を留めているかもしれないし,場合によってはコップに映っている光に目を留めているかもしれない。」(82頁)

このように,自閉症者は,特定のものに過剰に注意が向かう一方で,言葉による概念化がうまくいかないために,認知したものとの間に心理的な距離を取ることができない,という。

次に,時間的な距離感の不在について。

「タイムスリップとは,自閉症児(者)が過去の出来事を突然に思い出して,あたかも先ほどのことのように扱う現象である。自閉症の場合,頻々と過去のフラッシュバックによる再体験が起きている。この時間距離はときとして数年を超えることがある。」(83頁)

このような時間の体験は,自閉症者において,「現在と過去とがモザイク状に体験されている」(84頁)ためである,という。

翻って健常者の自明なる世界が,いかに距離感,あるいは「間」によって成り立っているかが理解できる,ような気がする。

ところで,このような「距離感」のない自閉症の体験世界は,「間違った」世界認識なのであろうか? 著者は,自閉症に関する第四章のタイトルを「自閉症という文化」と名づけているが,そこで,高機能自閉症者にして動物学者,さらに著名な牧場の設計者であるテンプル・グランディンのエピソードを紹介している。

「彼女は犬がなぜ犬なのか,あるとき不思議に思ったという,犬といってもセントバーナード犬のように巨大な犬もいれば,チワワのように小型の犬もいる。毛の長いものも,毛の短いものも,ヘアレスドッグまでいる。・・なぜこれらが犬という共通の言葉で言われるのか。彼女のとった戦略はすべての犬の写真を丹念に見ることであった。その結果,グランディンは犬に共通項があることを見いだしたという。それは犬の穴の形であった。そこはすべての犬に共通していたのである!」(87頁)

つまり,自閉症者の世界の体験の仕方は,劣ったものというのではなく,独自のものであると言えるのではないか。だからこそ,著者は,自閉症を「ある種の異文化であると実感する」というのだろう。
「異文化」という比喩的な表現は卓抜である。文化は異なっても,同じ人間であるということが,そこには含意されているから。
異文化という点を指摘した上で,著者は次のように指摘する。

「しかし,筆者としてはもう一つ強調したいことがある。・・丹念に自閉症者の自伝を読めば,その認知の特異性にもかかわらず,感情の持ち方は健常者と同じであることに気づく。基本的な感情は同じである。人に褒められれば嬉しいし,叱られれば悲しい。ゲームに勝てば嬉しい,負ければ悔しい。・・つまり彼らは,異文化ではあっても,異星人ではないということである。」(89頁)

そういえば,7月21日に紹介した自閉症者の東田直樹さんも,言っていました。
「僕が言いたいのは,僕たちもみんなと同じだということです。見かけが変で上手く話せなくても,心は同じなのです。」(東田直樹『この地球にすんでいる僕の仲間たちへ』42頁)