伝統とナショナリズム

アーネスト・ゲルナー『民族とナショナリズム』加藤節監訳,岩波書店,2000年


63回目の終戦記念日

ナショナリズムは,民衆の情念を基盤とするかのような装いのもとで,つまり,国家による組織的虚構として,成り立っている。
もちろん,こういうからと言って,ナショナリズムが単なる虚構で,無意味なものになるというわけではない。虚構は,生きられることを通して,現実となり,人によっては,かけがえのないものとなる。また,そうであればこそ,虚構を虚構として認識しておくことが重要な意味をもつ。

著名なナショナリズム研究者アーネスト・ゲルナーは次のように述べている。

ナショナリズムは,その本質において,以前には複数の低文化が人口の大多数の,ある場合にはそのすべての人々の生活を支配していた社会に,一つの高文化をあまねく行き渡らせるのである。それは,かなりの程度精密で官僚的かつ科学技術的なコミュニケーションの必要に応じて成文化され,学校で伝達され,学士院の指導の下に置かれた慣用句が広く普及することを意味している。」(97頁)

様々な地域文化が息づく社会に,中央の文化が標準的なものとして広がっていく。標準的な文化の形成・普及にあたって,教育や学問が官僚制と一体となって,利用されていく。ゲルナーは,上に続けて次のように述べる。

「それは,匿名的で非人格的な社会の確立であり,この社会は,極小集団がそれぞれ土地ごとに特有な形で再生産する民衆文化によって支えられた地域の諸集団からなるかつての複雑な構造に代わって,もっぱら上記の類の共有文化によって結合されている相互に互換可能で原始化された諸個人から成り立っている。これこそが本当に起きていることである。」(同上)

ナショナリズムは,決して土俗的共同性を基盤とするのではなく,それを破壊する近代的原子化の土壌に生え育ってくる。

ちなみに,英国の詩人T.S. エリオットは,1933年の講演「異神を追いて」(After Strange Gods)において,伝統の復興を呼びかけた。伝統とは何か。

「伝統は単に,あるいは本来の意味に於いてすら,ある教義上の信仰を維持する事ではない。斯かる信仰は,伝統の形成過程に於いて生きたものとなるのである。私のいう伝統とは最も重要な宗教的儀式から,「同じ土地に住む同胞」であるという血縁関係を表す,見知らぬ人間に対する因襲的な挨拶の仕方に至る,あらゆる慣習的行動,習俗そして習慣を含む。」(エリオット『エリオット評論選集』臼井善隆訳,早稲田大学出版会,2001年)

この習俗の生きる共同体を,エリオットは,国家ではなく,地域社会であるとみていた。ゲルナーの議論に即して言えば,「複数の低文化」の場である。

戦争に破れ,新しい歩みを始めた日本は,しかし地域を破壊する過程においては戦前から一貫していたと思う。人びとは郷愁を募らせ,寅さん映画や高校野球が消費された。
しかし今や,そうした郷愁は実体験の裏打ちも,想いを寄せる場所も少なくなり,思いばかりが宙をさまよっているように思われる。このやるせない思いの落ち着き先はどこになるのか。
政府やメディアが善意を以て,戦争の記憶をつなごうと言うとき,結局その場所は,国民という生きられた虚構である。郷愁は,国民の物語に涙する。しかし,そこに虚偽はないのか。生きられた真実と,作られた虚偽とを,丁寧にみていくこと。