シンボルと人間

カッシーラー『人間─この象徴を操るもの─」(宮城音彌訳)岩波書店,1953年


カテゴリー[human]で問題としていたことを,すでにカッシーラーという哲学者が論じている。
本書(原題は An Essay on Man - An introduction to a philosophy of human culture)の第2章「人間性への鍵─シンボル」でカッシーラーは,人間世界(human world)を記述するためには,動物の環境適応を説明する感受系と反応系に加えて,象徴系(symbolic system)が必要であると主張する。

「人間は,ただ物理的宇宙ではなく,シンボルの宇宙に住んでいる。言語,神話,芸術及び宗教は,この宇宙の部分をなすものである。それらは,シンボルの網を織る,さまざまな糸である。あらゆる人間の思想及び経験の進歩は,この網を洗練し強化する。」(35頁)

こうして,カッシーラーは人間を,理性的動物(animal rationale)ではなく,象徴的動物(animal symbolicum) と定義する。
ところで,象徴=シンボルとは何か。カッシーラーは,サインあるいはシグナルと対比して,次のように説明する。

「シグナルとシンボルは理論上,二つの異なった世界に属するのである。すなわちシグナルは物理的な「存在」の世界の一部であり,シンボルは人間的な「意味」の世界の一部である。シグナルはオペレイター(操作者)であり,シンボルはデジグネイター(指示者)である。シグナルはたといシグナルとして了解され,用いられたとしても,一種の物理的又は実体的存在である。シンボルはただ機能的価値のみをもっているのである。」(43頁)

たとえば,パブロフの条件反射の実験で鳴らされたベルの音は,シグナルである。それは,条件づけられた犬にとって特別の意味をもつが,シンボルが可能とするような思考(これをカッシーラーはシンボル思考と言う)はうみださず,反射をうみだすにすぎない。つまり,ベルの音は,ある条件下である特定の反射を引き出すオペレイターとしての役割は果たすだけである。この場合,シグナルは,音という実体的存在と不可分である。
それに対してシンボルは,実体的なものから切り離されて,一般的適用性を有する。たとえば,言葉を考えてみよう。言葉は,たしかに音や文字という物体性を有するサインの側面をもつが,それだけでは,意味をもたない。(知らない外国語に接する場合,言葉のサインにふれることはできるが,それは意味を表さない。)言語が意味をもつのは,サインを活用しつつ,そのサインによって何事かが語られるからである。これをカッシーラーは,「シンボル機能」と言う(49頁)。
これまで,[human]のカテゴリーで紹介してきた事柄(「概念化の困難」(8月14日,「アナロジー」(8月3日),「隠喩の力」(8月2日),「精神病理学における歴史不在」7月23日)は,カッシーラーに即して言えば,シンボル機能の不全,と言えるのではないだろうか。

エルンスト・カッシーラー(Ernst Cassirer, 1874-1945)は,新カント学派に学び,象徴形式の哲学という独自の思想を展開した哲学者。思想史上の業績も数多く訳され,基本書に挙げられている。(基本書と言っても,読むのには難儀するのだが。)近年,その文化哲学が再評価され,彼にかんする研究書や研究論文が数多く出るようになってきた。
本日記にも登場したハイデガー(7月25日,8月9日)とは,ダヴォス討論で対決するなど,哲学的に対立したばかりではない。ナチスが政権をとった1933年,ハイデガーフライブルク大学総長に選ばれたのに対し,ユダヤカッシーラーは亡命を決意した。二人は,その人生の道行きにおいても対照的な運命をたどったのである。
ドイツを出たカッシーラーは,はじめオックスフォード,続いてイェテポリ(スウェーデン)で教授を務め,1941年にイェール大学の客員教授として渡米した。アメリカに渡ってから英語で書いたものの一つが,本書であり,もう一つが,『国家の神話』であるが,後者の公刊をまたずに,1945年4月12日に亡くなった。