人間の世界を再建する

カッシーラー『人間─この象徴を操るもの─」(宮城音彌訳)岩波書店,1953年


カッシーラーの議論で,やや違和感を覚えることは,原始的思考とより発達した思考を区別し,人間文化の進歩の有意味性を疑っていないように見える点である。

「原始的思考では,存在と意味の二領域を分化することは,なお極めて困難である。両者は,つねに混同されているのであり,シンボルは,叙述的または物理的な力を備えているかのように考えられている。しかし,人間文化がさらに進歩すると,「物」とシンボルの差異が明らかに認められるようになるが,このことは,現実性と可能性の区別もまた,ますます判然としてきたことを意味するのである。」(80頁)

構造主義を経験している立場から見れば,こうした進歩への楽観的にも思える信頼には,ついていけない気持ちをもつかもしれない。
しかし,8月17日にも紹介したように,本書を書いているときのカッシーラーは,亡命の身の上である。ユダヤ人を迫害したナチスの神話的世界観を前にして,人間文化の可能性と理想を守ろうとするこの姿勢には,重い意味がある,と思う。
ところでカッシーラーは,シンボル的思考の機能不全を,病的な思考の例で論じ,それを一般文化的な意義へと拡大する。

「[現実性と可能性の]この相互依存関係は,間接的方法で証明することができる。シンボル的思考の機能が損傷され,または明らかでなくなるというような特殊な条件のもとでは,現実性と可能性の差異もまた,不明確になるという事実が見られる。・・失語症の例において,患者は,特殊の言葉を使い得なくなるばかりでなく,同時に,その一般的知的態度に奇妙な欠陥を現すことが実に多い。・・これらの患者の中には,正常人とそれ程隔たっていない行動をするものが多かった。しかし,彼らが,より抽象的な思考様式を要する問題に直面したとき,すなわち,現実性よりも,むしろ単なる可能性について考えねばならぬとき,彼らは直ちに大きい困難を経験した。」(81頁)

現実性のみならず可能性を思考しうるところに,人間のシンボル的思考の偉大さがある,これがカッシーラーの確信である。カッシーラーはそれを,数学史や実践哲学の領域に即して確認のだが,ここでは後者にかんする記述を引用する。

「倫理的世界は,決して与えられるものではない。それはつねに作られつつある。「理想的世界に生きることは,不可能をあたかも可能なように扱うことだ」とゲーテは言った。」(85頁)

カッシーラーは,偉大な政治学説は不可能を可能であるかのように扱ってきたとし,たとえばルソーの「自然人」も決して歴史的原始人なのではなく,シンボル的な概念であると解説する。

「ルッソーの自然状態の記述は,過去の歴史的叙述として企てられたものではなかった。それは,人類のために,新しい未来を描き,実現せしめようとする意図をもったシンボル的構成物であった。」(86頁)

カッシーラーは,政治におけるシンボル的構成物であるユートピアの意義について次のように述べて,「事実と理想」と題した章を終える。

ユートピアの大使命は,事態の現状の消極的な黙認に対抗して,「可能なるもの」のために余地をつくることである。シンボル的思考こそ,人間の自然の慣性を克服して,人間に新しい能力,人間的宇宙を不断に再建する能力を与えるものである。」(87頁)

呪われた故国の悲運を見据えつつ,未来の「再建(reshape)」の可能性を,カッシーラーはあくまでも,人間の思考に求めたといえるのではないだろうか。