堕罪としての抽象

ベンヤミン「言語一般および人間の言語について」,『ベンヤミン・コレクション I 近代の意味』(浅井健二郎編訳・久保哲司訳)ちくま学芸文庫,1995年


ブログ開始から一月を経過しました。
このsonnenblumenの日記は,個人的な教育研究情報をアップするウェッブサイトで行っていた本の紹介を,ブログ形式で継続することにしたものです。
ちなみに,そのウェッブサイトには次のような文章を載せております。
「ウィークデイに読んだ本の中から、印象的な文章を抜き書きします。
学生諸君に本を選ぶ参考にしてもらえたら幸いです。
何か気にかかる断片と出会えることができたら、自分の思考を深めるきっかけになるでしょう。
ただし、悪書を載せることもありますので注意してください。」
本ブログも,同じ精神で継続していきたいと思っています。
(ただし,悪書などという言葉は,やや無神経な表現だったと思いますが。)

さて,本日は,難解なベンヤミンの言語論から。
8月17日,19日と紹介したカッシーラーによれば,抽象能力は,人間的世界を創り上げるのに不可欠なシンボル的思考に含まれるもののはずである。
ところが,ベンヤミンは,旧約聖書「創世記」の堕罪の物語の解釈を通して,次のように述べる。

「・・言語の本質連関にとって,堕罪は(他の意味にはここでは触れぬとして)三重の意味をもっている。第一に,人間は名という純粋な言語のうちからその外へ離脱することによって,言語を(人間にふさわしくない認識の)手段となし,それとともにまた,言語を少なくともある部分ではたんなる記号にしてしまう・・第二の意味はこうである。いま堕罪のうちから,堕罪において傷つけられた名の直接性の回復として,新しい直接性が生じる・・第三の意味は,おそらくあえてこう推測してもよかろうと思うのだが,言語精神のひとつの能力としての抽象の根源もまた,堕罪のうちに求めうるだろうという点である。・・」(30-31頁)

アダムとエヴァが蛇にそそのかされて善悪を知る知識の木の実を食したときに,一体何が生じたのか?
堕罪以前の楽園における言語は,ベンヤミンによれば,「言葉にして名」(22頁)である。

「神のうちにおいて名は創造する力をもち,神の言葉は名であるがゆえに,この言葉は認識する力をもっている。「神はそれを見て,良しとされた。」」(22-23頁)

ベンヤミンは,人間の精神的本質を,たとえば「光あれ」とよぶ神の声の反映と考える。創造の媒質としての言語,すなわち「名」,これが人間の言葉に反映し,精神的本質をなす。
堕罪とは,このような「名」としての言語が,抽象的記号としての言語に堕すことを意味する。なぜならば,「善悪を知る知識」は「名」を離れ去るからである。

「善悪の知識は名を離れ去る。それは外側からの認識であり,創造する言葉の非創造的な摸倣である。・・堕罪こそが,名をもはや侵されぬ姿のままに生かしてはおかない,人間の言葉の誕生の時なのである。」(29頁)

なぜ,善悪の知識は名を離れ去るのか? 「何が善で何が悪かという知識は,名を欠いている」(29頁)からというのだが,こうした理由づけには,独断的という印象を感じるかもしれないが,こうした論理の「飛躍」の問題はひとまず措(お)いておこう。上に続いて,ベンヤミンは次のように述べる。

「人間の言葉は<名-言語>から・・離脱して,外へ表出したかたちで・・魔術的なものになった。これにより言葉は(自己自身以外の)何かを伝達することになる。これこそまことに,言語精神の堕罪にほかならない。」(29頁)

この堕罪が,一番最初に引用したところの,三つの意味をもつと,ベンヤミンはいう。それをまとめるならば,人間の言語的精神は,神の創造の反映としての<名>の性格を失い,外的なものを表現する手段と化した<記号>的言語へと堕落し,これによって(光あれ,光があった,という)「名の直接性」から,記号による「抽象的な伝達可能性のもつ直接性」へと堕落した,というところか。
さて,このような言語論を通して,ベンヤミンは何を言おうとしているのだろうか?
この問題は,とても容易にはこたえられないが,言葉が何かを表現するという自明性が崩れるときにベンヤミンの言葉は生きてくるのかもしれない,と,ひとまず想像しておくことにしたい,と思う。