流行と不易

中西進『日本語の力』集英社文庫,2006年


昨日(8月20日)の言語の問題を,具体的に日本語に即して考えてみるとどうなるのか,と思って手に取った,肩肘張らずに気楽に読めるエッセーの中に,なかなか気になる言葉が出てきたので,紹介したい。
著者は,「変ることば,変らないことば」というエセーを,『平家物語』,『源氏物語』でどんな単語がどれほど使用されているのか,という話題からはじめて,『源氏物語』の中のことばで,現在使われていない「あてなり」や「えんなり」について解説し,言葉の流行り廃りについて,次のように述べる。

「この「えんなり」は王朝語と考えてよい。となると王朝人の優美なことばが今日消滅したかに見えるが,さて,ことばが消滅したのだろうか。
・・・
いや,おそらく,こう現代人が理解しかねるのは,もう現代人では手の届かないほど高度な美意識を古典人がもっていて,それを「えんなり」とか「くはし」とかといったとしか考えられない。」(58-59頁)

著者は,ことばが消滅したのではなく,こころが消滅したのだ,という。それを著者は次のように簡潔に述べる。

「だから,古いことばが一時期姿を見せて今は消えているのは,じつはことば自体が理由ではなくて,使い手自身の変質によってもはやことばが使い手を失ったというべきであった。
心の喪失が,ことばを「流行」のものとしたのである。」(59頁)

したがって,著者は,反対の事態について,

「ことばの不易さとは,心の持続を意味する」(59頁)

とも述べるのである。
著者の中西進氏は,1923年,東京生まれ。『万葉集』の研究で有名だが,たんに日本文学や日本語学にとどまらず,日本文化のあり方にも詳しい。国語審議会委員も務める日本学に関する重鎮である。
思想研究の世界にいると,このような心やことばを実体化するかのような発言には,すこし腰が引けるのだが,国語学者の実証的な研究成果に基づく見識には,やはりそれなりの敬意をもって,耳を傾けなければならないのだろう,と思う。哲学的な言語論の抽象性のなかに安住するばかりではなくて。
ただ,おそらくベンヤミンのいう言語的精神の堕罪は,『万葉集』以前の,資料さえ残されていない時代についての議論であろう。その地点に立ってみれば,「えんなり」や「くはし」もまた「名の直接性」を失った言語精神によるものである,といえようか。
特定の時代の特定の心のあり方を絶対化する必要はない。古代の言葉もまた「流行」とは無縁ではありえなかったのだから・・・そのように,ひとまずは言えよう。
しかしながら,他方で,たしかに過去の言葉の方が,本来の言語的精神をより多く保存していたのではないか,という想像をとどめることも難しい。哲学者も,しばしば語源から,本来的な意味を論じているではないか。
現代は,そうした想像をとどめられないまでに,言葉が混乱した時代,なのだろう。それは,堕罪以来とも,バベル以来とも,言えるのだろうが。