<かたり>について(1)

坂部恵『かたり 物語の文法』ちくま学芸文庫,2008年(弘文堂,1990年)


ここ数日(9月2日,3日)話題にしてきた「物語」の問題は,現代の人文科学においても愁眉の課題である。その一端を,哲学者の文章から確認しておきたい。

「言語をたんに事実の描写ないし記述の道具と考える<記述主義的誤謬>や,あるいはそれをたんなる事実に関する情報の伝達のための手段と見なしたりする考え方が,・・いかに近代科学の認識の客観性なるものへの過大でしかも排他的な信頼と,ひいてはまたそれと密接な形で結びついた人間による世界あるいは自然の支配を志向する人間中心的な形而上学の影響下にあるものであるかが,おいおいだれの目にもあきらかとなりつつある今日,・・<かたり>や<はなし>や<うた>などを含むひろい意味での言語行為に関する問題を考える機運は,一面でおいおい熟しつつあり,・・近来の欧米の学会でも,一定の考察の成果が積み重ねられつつあることはたしかである。」(32頁)

しかし著者は,この問題を考える「概念装置」の開発はまだはじまったばかりであるとして,その理由を次のように述べる。

「第一にあげられる理由は,言語をもっぱら描写の道具と見る見方の一面性を突いて,言語を使用すること自体がひとつの行為の遂行にほかならぬ場面が,そう思ってみれば日常生活の中に多く存することにあらためてひとびとの注意を喚起した言語行為論の哲学の登場以降,言語のいわゆる<行為遂行的>・・使用の諸相に関する分析については,多くの新たな知見が積み重ねられてきたが,この種の分析は多くの場合一つないしたかだか数個のセンテンスからなる言語行為について行われるのが通例であり,<かたり>というような大きなプロットをもった単位の言語行為の分析にはまだ充分に努力が及んでいないという事情の存在である。」(32-33頁)

やや難しいが,要するに,言語行為論はまだまだ現実の言語遂行の場面を分析するための議論に仕上がっていないという指摘である。しかし,これは本質的な問題提起では必ずしもないと思う。より重要なのは,次の指摘である。

「・・この種の大きな単位の言語行為に関する一般的な分析の立ち後れの第二の理由として,わたくしは,この種の考察のためには,言語行為(とまたその享受と発展・継承)の主体についての理論を,素朴な日常的理解のレベルを越えて大きく拡大深化することが必然的に要請されるという事情をあげておきたい。」(34頁)

「言語行為の主体」の問題とは,どのようなことか。

「<かたり>というような大きな言語行為の考察にあたっては,送り手,受け手をともに含めたその<主体>は,当然のこととして,個人のレベルをはなれて,より大きな共同体の<相互主体性>のレベルにまで,さらにときには神話的想像力の遠い記憶の世界にまでおよぶ下意識あるいはいわゆる集合的無意識のレベルにまで拡大深化されることがほとんど不可欠の前提となる。しかし,まさにこの領域こそ,さまざまの努力にもかかわらず,現代の哲学・人文科学がなお多くの未開拓といえる部分をのこしている当の分野にほかならないのである。」(34頁)

「より大きな共同体の<相互主体性>のレベル」ということの意味がわかりにくいかもしれない。あまり適切な例ではないかもしれないが,数日前の,ペシャワール会のワーカーの死に関する,テレビ解説者の話を素材に考えてみたい。
そのテレビ解説員は,ワーカーの死を受けて,「日本人がアフガニスタンのような危険な地域でどのような国際貢献ができるのか,再考すべき時がきている」と述べた。もっともな発言のように思われる。
しかし,不思議に思われるのは,この会に直接関わっているようには思われない解説者が,何故,アフガニスタンについて実際に何かをしている人びとに対して,このように指図するようなことを言えるのか,である。
当該NGOの運営に関わったり,実際に寄付をしているのであれば,その団体がどうすべきかという議論に関わるのは,当然であろう。しかし,何もしていない人間が(もしかすると,そのテレビ解説員は会員なのかもしれないが),どういう関わりから,あるいはどういう理由から,援助の仕方を再考すべきだ,と言えるのか。
誤解のないようにしてほしいのだが,「・・すべきだ」と言うことが間違いだ,と言いたいのではない。そうではなく,普段は「私たち」という共同意識もなしにいる人間が,たまたま危機のときにあたって,「私たち」という言葉で呼び合うのは何を根拠にしてなのか,そのことをここでは問題にしているだけである。
たとえば,欧米の援助団体が同じような事件にあったとき,私たちは「援助活動を見なおすべきだ」などと言うだろうか。おそらく,何も言わないだろう。
ここには,「私たち」をつなぐ歴史的,神話的な「時間」の力が働いている。

「・・<かたり>という大きな単位の言語行為の一般的分析の立ち遅れの第三の理由として・・・この種の分析においては,<時間>の問題をどう考えるかということ,しかも,たんなる物理的時間やあるいは暦の時間ではなくて,まさに<相互主体的>世界とまた<相互主体的>心性,さらには・・人間の心性一般の根本の形を決めるような時間の特質についての分析がおそらく不可欠の条件の一つとして要請されるという事実があげられるだろう。このことは,一般に<かたり>なるものが,その内容として,歴史的なものにせよあるいは神話的なものにせよ,何らかの<過去><いにしえ><むかし>にかかわることどもをその内容としてもつことをあらためて想起してみるだけで容易に納得のいくはずのことである。」(35頁)

歴史や神話の中を流れる「時間」が「私たち」の「<相互主体的>心性」をつくるようである。しかし,上の引用は,まだ問題提起にとどまる。著者の細かい議論は,明日以降,紹介したい。